誰も褒めてくれないけど毎日何かと闘ってる / Taylor Swift "This is me trying"
前回、行動の前にある「勇気」をもっと称えるべきだという話を書いた。
ネビルの勇気について考えを膨らませる前に、ぐるぐると考えていたことがあるので忘れないうちにそれも記録しておく。
Taylor Swift(テイラー・スウィフト)が、2020年にリリースしたアルバム"folklore"の対談の中で言っていた言葉が、なんだか印象に残っていた。
"This is me trying"という曲についての説明。
まずはじめに思ったのは、「へぇ〜、アメリカ人でもそんなふうに悩むんだな、どこも一緒だな」ということ。(失礼)
「アメリカだけでも3億人以上いるんだからそりゃあ人生に迷う人だってたくさんいるだろ」というのはもちろん分かるのだけど、
やっぱりアメリカ人って日本人に比べたらすごく精神的にオトナで自立しているイメージがあって、「自分で決めて進む」ことには慣れている、という偏見がどこかにあったのだ。
アメリカの学校には通ったことがないので詳しくは分からないが、何かに秀でていると"gold stars"をもらって褒めてもらえる、という学校の仕組みは案外日本と変わらないんだな、と思った。
テイラーは、こうも語っていた。
「誰も褒めてくれないけど、毎日何かと闘ってる」
そんな人々の心の叫びを想像して、テイラーはそれを音楽で表現した。
サビでは何度も、「頑張ってるってことをただ知ってほしかった 少なくとも私は頑張っているの」というシンプルな言葉が並ぶ。
このアルバムを一緒に製作した音楽プロデューサー、ジャック・アントノフはこのように話している。
世界的に活躍して結果を出している人でさえ(いや、世界的トップレベルな場所にいるからこそ?)そんな風に思うんだなぁ、と思った。
どれだけ頑張っても十分じゃないと感じる。そんなの、レベルに関係なく誰だって辛い。
「やっている本人にしか分からない」という言葉も、まさにそうだなと思った。
どれくらい頑張っているかなんて主観的なもので、他人には絶対に分からない。常に孤独だ。
だから、そもそもの「頑張っていることを他人に認めてもらおう」という考えから、捨てなければならないのだと思う。
(『嫌われる勇気』のアドラー心理学でも「褒めてはいけない」という教えがあるが、それはまた違う投稿で書く)
今書きながら、気づいたことがある。
学校でもらう通知表は「頑張ったことを褒めてもらうため」のものじゃなかった、そういう風に捉えるべきじゃなかったんだな、って。
通知表は、数字や◎○△という分かりやすい記号で「いま自分は何が得意で何が苦手なのか」を可視化しただけの、自分の現在地を教えてくれる「地図」や「指標」に過ぎないんじゃないか?
その地図を頼りに、自分はどこへ向かいたいのかを考えて、そこに向かうために次はどのスキルを身につけたらいいのか=何を頑張ったらいいのか、をひとまず決めることができれば、それだけで十分だったんじゃないか?
算数が△だろうと、国語が3だろうと、体育が1だろうと、評価の良し悪しなんて本当はどうでもよかったんだ、きっと。
(あくまで「通知表はこれからの行動のための指標にすぎない」と思えればの話だけど。)
学校も親も、誰もそんなふうには教えてくれなかった。
だってみんな(自分も含めて)、◎や5は多ければ多いほど良い、内申が良ければ受験にも有利だから、という視点でしか通知表を見ていなかった。
「努力して良い結果を出して、さらにそれを他人に評価されることが大事」という価値観が、いつのまにか形成されてしまっていた。
だから、大人になってから「誰にも褒めてもらえない」「認められたい」と、自分で自分の首を絞めることになる。
自分で褒めて認めてあげればいいだけなのに、自分以外の誰かに認めてもらうことばかりを求めるようになってしまう。下手すると、認められること自体が目的になってしまう。
良くない。
これはほんとに良くない。
そういえば、Aqua Timezの『決意の朝に』にこんな歌詞があった。
本当にこの歌詞の通りで、子供みたいに与えられることを待ってないで、自分の足で歩いていくしかない。もうそれしかない。何事も。アメリカだろうと日本だろうと、どこにいてもそれだけは人類共通だ。
考えても考えても、いつもこの結論(結局は自分でやるしかない理論)にしか着地できない自分がちょっとつまらなく感じてきた。ボキャブラリーがなさすぎる。
もっと色々と多角的に、深く考えられる人になりたい。
This is me trying.
誰に褒められなくても、自分との闘いを続ける。
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