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エッセイ「夢への逃避行」

2024年5月15日、夜

 カタツムリの旅立ちから約1週間(詳細は前回の記事)。それなりに順調に過ごしている。相変わらず頭の中には霧が立ち込めているので、周りからは四六時中 憂鬱な人に見えるかもしれないが。私にとってはこれで平常運転なのだ。

 今日は久しぶりに「何か書かねば」と欲求のアラートを感知した。しかし具体的なテーマが思い浮かばない。カタツムリからニンゲンに戻ってからというもの、私の意識は内より外に向いている気がする。孤独を終えた反動だろうか。一つの物事を深く考える時間が減っている。今回のアラートはそんな私に立ち止まるよう伝えているのかもしれない。

 それならば、ということでnoteを開いたわけだが、やっぱり集中できない。今日いつもより疲れて見えた職場の上司はまだ残業中だろうか。今朝少し弱音を吐いたフォロワーさんはもうぐっすり眠れるだろうか。帰りに見かけた「この先 通行止め」の看板はもっと目立つ場所に立てないと人々が困るのではないだろうか──。
 私が考えても仕方のないことだが、だからといって「私には関係ない」と割り切りたくない。それをしてしまうと、世界はとても冷たくて守るに値するものがないように見える気がするのだ。私が誰かのことを考える時、誰かもまた「見えない誰か」のことを考えている。そう信じたいのかもしれない。「世界は私が思うより安全だ」──そんな夢を見るために。
 実際、夢物語ではないのだろう。何やかんやあるけれど世界は概ね平和で、この国に守られ、夜中に1人コンビニへ行くことだってできる(するかしないかは別として)。こうした感覚を「常識的な楽観視」と言うのだと某精神科医YouTuberが紹介していた。このフレーズは脳裏に強烈に焼きついた。
 「いやまあそんなに悲観しなくて良いことは分かってますけどね」──頭では分かっている。分かっているのだが、だがしかし。不安なものは不安なのである。ある程度 不安でいる方が安心できるのである。しかし不安の中にいる以上、不安からは脱せないのである。こうしたジレンマに陥ることを人々は「囚われ」と表現した──。

 夢の話をしたせいか、私は今とても眠たい。眠りは囚われからの解放だ。眠っている時、人は真に自由で「ありのまま」でいられる。「ありのまま」とは、この身そのものを指すと思うのだ。眠りは手っ取り早く私を解放してくれる(とはいえ上手く眠ることが難しいのだが)。
 お気付きの通り、眠気によりヤケクソである。今日のところは潔く逃げることにしよう。ここから夢への逃避行。現実逃避をポエムにして。

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