2月20日
教壇に立っていつものように授業をしていると、なんとなく、ふらっとした。
黒板に文字を書いて生徒の方を振り返ると、またふらっとした。
海へ散歩に行った。てくてくと歩いていると、脳がゆらゆらした。すてきな貝がらを見つけたのでしゃがんで拾ってみる。ちょっとぐらっと傾いた気がした。
次の月曜日、目が覚めてみると辺りはぐるぐると回転していた。さて顔を洗おうと立ってみるも、立てなかった。もう一度寝てから考え直そうと思い、布団に潜る。
再び目を覚ますと、今度は先ほどよりも勢いよく辺りが回っている。右回転である。無理やり体を起こすとますますひどくなった。気持ちが悪い。
どうにか病院へ行くと、それは眩暈ですねと、右に回りながら、医者が言った。
回転する世界でまっすぐ歩くというのは非常に困難な技である。まっすぐの先はまっすぐなのだと思っても、そのまっすぐ先がぐにゃぐにゃと回っているのだから分からない。自分が地面に立とうとしていることは確かだが、脳が回転しているかのように重力が四方八方から私の頭を引っ張る。
そして、このまわるまわるまわる視界に身体がだんだん慣れてくるわけでもないらしい。時に酔って時に吐く。吐いている間もぐるぐると便器が回っている始末。
横になって休もうと床に頭を近づけると、いよいよ重力は私を強く引っ張るようになる。それは私が頭をついに床につけようと留まるものではない。それよりも遥か下、地面よりもマントルよりも下、現世よりも下にぐるぐると回りながら降ろされてゆくようである。
数週間この眩暈と暮らしているうちに、このまわる世界に愛着すらわいてきた。たまに調子がよくて目が覚めて起き上がったときに脳がぐるんとしないと、あれ、と少し物足りない気がしてくる。
寝転がって本を読んでいると文字がふわふわと落ちてくる。自分の右側にその文字が溜まっていく。
時計は文字盤の数字が順序を変えながら時刻を示す。
壁に掛かった絵は、落ちることなく、ぐるぐると回りぐにゃぐにゃと歪む。
机が平らであるなんて嘘かもしれない。人の顔も歪んできた。立ってみたと思ったのに倒れる。前を向いていると思ったのに地面を見つめている。
回る回る世界回る回る回る回る廻る廻る回る回るまわるまわるまわるまわるまわる回る回る回る回回回回回回回る
重力に頭を枕に押し付けられながら、窓の外を見た。
青空だった。
こんな生活が3年ほど続いた。
私はすっかりまわらない世界を忘れてしまった。
人間の上下の認識は重力など関係なくそれぞれの脳で処理されるものだと分かった。視界が歪む前にしていた物理や数学の勉強は、馬鹿らしくなってやめた。人間がもつ補正能力を失った今、私にとって物理や数学は真実ではない。人間にとっての解釈を研究したところで宇宙の解釈には近づいていないのだ。
ニュートンはりんごが重力によって地面に落ちると言った。りんごは落ちるが落ちるという認識は三半規管があるからで、落ちるとはなんだろうか。
星が降るだなんて誰が言ったのだろうか。星は時に空に浮いているし時に暗闇に沈んでいるだけなのだ。
ただの眩暈である。