『論創ミステリ叢書4 松本泰探偵小説選Ⅰ』
資料性という点では絶大な評価を受けながら、こと作品内容という事になると「読んだ」というコメントすらあまり聞かれない論創ミステリ叢書。その中でもこの松本泰集、内容的な評判がひときわ芳しくない部類に入っているようで、少なくとも平林集、甲賀集の時には見られなかったくらい悲惨な評価をウェブ上で拝見した事があります。
確かに「蝙蝠傘」などを読むと「これでいいのか!?」という感じがしますが。
内容的な不満で一番大きな所は、読者が期待する「ミステリ」としての構成、「ミステリ」としての演出を作者・松本泰が殆ど無視、あるいは軽視している風に見える、という点でしょうか。横井司さんは解題の中で松本泰の作品世界について、以下のように解説しています。
松本泰の作品は題材に焦点が当てられるといえるかもしれない。面白い題材、謎に対したときの好奇心の働きをそのまま紙の上に表すのが、探偵小説テクストにおける書き手の態度なのだ。そうした一種の傍観者流ともいうべき視線あるいは気分が、独特の雰囲気を醸成している。それは、いささか作家論的になるが、海外遊学体験や悠々自適なように感じられる生活態度が、書き手にそのような視線をもたらしたのではないだろうか。
印象論ですが、松本泰の作品では大体において、事件(謎)の解明に向かおうという意志が非常に弱いように思われます。確かに事件は起こり、登場人物は謎に巻き込まれるのですが、謎は解かれる前に解けてしまい、事件は解決後の説明として処理されてしまう。「謎」も「事件」も適当にあしらって、では松本泰の作品には何が書かれているのかというと、それがつまり「探偵趣味」という便利な言葉で表されるヤツだろう、というのが横井さんの見解。
戦前のプロパー作家のほとんどがどちらかの〈派〉に分類されるのに対して、松本泰はいずれでもない独特のスタンスに立っていたのである。そのスタンスとは、秘密を楽しむ姿勢とでもいおうか。そうした誰もが持つ好奇心のようなものを、それはメディアを通して他人の不幸を楽しむ大衆の病理ともいえるかもしれないが、そうした微妙な気分・感情そのものを言語化するような、それこそ探偵趣味とでもいえそうなスタンスである。
どちらかの〈派〉とは、いわゆる〈本格派〉と〈変格派〉の事。〈本格派〉と〈変格派〉のどちらにも与しないスタンスという松本泰の位置づけは既に江戸川乱歩が松本泰を「情操派」に分類した際に指摘していた事とはいえ、「探偵趣味」というまさに時代の言葉を当てはめたのは横井さん。しかし今の「ミステリ」読者の嗜好は昔以上に〈本格〉か〈変格〉か(そうでなければ「萌え」か「脱格」か)の方向に極端に振れているような気がしますので、そのどちらにも与しない作風が受け入れられないのも確かに仕方ない……。
結局作者が目指したところは何なのか、それが読者の要求するところと噛み合うのか、というような根本的な部分で、商品の性質もマーケットの相性の問題も不明瞭にしたまま、21世紀の「ミステリ」読者よこんにちは、と麗々しく登場してしまったのは、松本泰にとってタイミング的にかなり不幸だったのではないかと思う次第。資料的価値云々も、「でもつまらない」という言葉の前には何のフォローにもなりませぬ。
とはいえ戦後初めて2巻本としてまとまって読めるようになった事で、「ミステリ」ジャンルべったりの読者でない方面からの支持を得る機会が作られたとも言えます。しかしそうなると「探偵小説選」というタイトルが邪魔をしそうでこれまた不幸な感じ。
しかし「最後の日」「ガラスの橋」「不思議な盗難」などは割と面白いです。特に「不思議な盗難」は、小酒井不木のナンセンス物と殆ど同じテイスト。小酒井不木といい松本泰といい、こういうのを西洋風というんかなあ、と思ったりして。
(記 2004/3/22)