「先生・女性・句碑」岡戸武平



『医家芸術』昭和48年2月号の話題。

 もう小酒井不木の回想など飽きるほど書いている岡戸武平、折角だからまだ書いていなかった事を、というわけでしょう、不木の艶聞を出してきました。ひどい弟子もいるもので。
 昭和2年頃、ある女性が喫茶店を開きたいと言っているが手頃な店は売りに出ていないか、と不木から相談された岡戸武平、ちょうど知人の店が売りに出ていたのを紹介すると、不木は店の買収費を自分の懐から出します。
 さあこの女性は何者か、不木との関係や如何に、と非常に気になるところですが、岡戸もさすがに肝心なところは殆ど書いておりません。「聞くところによると(これは先生自身から聞いた話)彼女を知ったのはニューヨークに滞在中、日本食堂で彼女が働いていた関係で知ったという点と、帰国後は伊勢の某病院長の世話になっていたという二点である。」と、彼女のプロフィールに関する手がかりはこれだけ。
 そんなわけで手がかりがないので、「問題の「小酒井不木と彼女」という点になると、確証もつかめなければ、その気配もない。」と断っているわりには、「それにしても相当の資金を与えて名古屋でしばらくとはいえ喫茶店を開かせ足留めしたことは、小酒井先生の単なる物好きとか、義侠心とかだけではすまされない、何か甘い夢があるように私には感じられて仕様がない。」と、何かないわけがないだろう、と言わんばかりの書きっぷり。本当にひどい弟子だ(笑)。

おそらくこの時代――三十七、八歳の時代の先生は、人生で一番充実もし、また楽しい日日であったろう。そうしたとき、はからずも異郷の地で知った女性が訪問し、その苦衷を訴え、援助を求めたとしたら、誰でも一応胸を叩く気になるだろう。ましてその女性が、自分の好むタイプであってみれば。

 最後の一言は余計な気もしますが、ともあれ世の男性諸氏でこの岡戸武平の分析を頭から否定出来る方はいなかろうと思われます。

 その女性は一年足らずで店をたたみ、名古屋を去ったそうです。さらに後日談として、不木が亡くなった後、縁あって博文館に入社した岡戸が「文芸倶楽部」の編集で働いていたある日、その女性が訪ねて来て借金を申し込んだ、とあり、哀れを誘います。そこから話は一気に現代へと移り、鹿嶋神社境内の句碑の話になるのですが、その辺は割愛します。
(記 2003/4/10)

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