『ゲイ・スタディーズ』(青土社・1997年)と浜尾四郎「悪魔の弟子」
「数世紀にわたって浸透してきた同性愛と病気と死とを関連づける文化的連想」(「第4章 同性愛と死――エイズによる古い話の回帰」127ページ)の実例、という事で浜尾四郎の「悪魔の弟子」が槍玉に挙がっておりますが、かなり叩かれております。
論者は古くから見られる「究極のところでは、同性愛自体はひとつの伝染病として考えられてきている」(128ページ)という、偏よったまなざしを徹底的に批判する立場ですので、「悪魔の弟子」が全く無自覚に、そうしたイメージを踏襲した形で主人公とその先輩との同性愛関係を描いていることに対して批判の目を向けるのは当然の成り行き。しかし浜尾の「悪魔の弟子」は「特に著しい例を挙げるとすれば」(128ページ)と真っ先に言及されるくらい当時として目立って偏見的な描写の作品だったんでしょうか。そんなこともないと思うんですけども。
「悪魔の弟子」に於ける同性愛関係の描写が上記のようなマイナスイメージの不用意な踏襲である、という意見については概ね頷かざるを得ません。ただ、本論における批判もまた、鵜呑みにすべきではない、とは申し上げておきたい。一面では確かに正当な批判ですが、この作品を殊更に悪しきものとして映し出してしまった原因は同性愛研究が持つバイアスにあるような気がします。少々長くなりますが引用してみましょう。
その手紙の中で、自分は妾の殺人に関して無罪であると訴えながら、自分が妻を殺そうと思うように至ったことを「あなたから受けたあの恐ろしい毒蛇の毒」に起因するものとする。それでこの場合の本当の殺人者は自分ではなく、今や検事となっている、しかも主人公と違って「異性に対して全く興味を持たない」昔の恋人である「あなただ」と主張している。(中略)恐ろしいことに、殺人行為に対するこの巧みな責任の移転によって、この小説におけるすべての「悪」の根元は一人の、作品の外側に存在して反論の機会すらない同性愛者にあるということになってしまう。自分の妻を殺そうと思った主人公は、その昔の恋人に対して、こう書く。「あなたはこの世に於いて、最も危険な人間です。あなたは悪魔です。(中略)
この小説の効果は、つまりここで「悪魔」とされている人物をこれほどに気持ち悪い存在にしているのは、彼が「異性に対して全く興味を持たない」ことによる要素が大きい。主人公の方は、自分の同性愛を「治し」女性との「健全な」関係に入るのだが、それがうまくいかない時に(要するに彼女を殺そうとするときに)、その責任をかつての同性愛の恋人であり、女性に魅力を感じないからこそ怪物のように描かれる、かつ実に支配的で権力的な「あなた」に負わせる。読者はテクストによって、この主人公の考え方を非難するように促されはするものの、同時に彼の不運を哀れみながらも、悪魔とされる彼の恋人の方に対してよりいっそうの嫌悪感を覚え、しかもこの人物を恐れるようにさえも促される。(中略)
しかし読者が持つだろうこれらの反応はすべてが浜尾の文章の巧みさに起因するものではない。むしろこの小説は、その劇的効果を生み出すために、当時の社会に既に存在していた同性愛者への嫌悪感を、動員しているのである。つまり、同性愛者を女性(この場合は、即ち家族や生殖=生)と無関係な、「非社会的」で不気味な、ひいては殺人的な「悪魔」のように捉える同性愛嫌悪を。
(129~130ページ)
探偵小説「悪魔の弟子」をお読みになった方、おやおや? とお思いになる箇所がいくつかあるのではないでしょうか。
描写に関しては確かにそうであろうと思う部分が多いですし、恐らく私が見逃し、論者の目には映るという部分も多いと思います。それは同性愛研究への踏み込み具合や、ある種の性的マイノリティに対する理解・共感の度合いによるところもあるでしょう。しかし、それはともかく解釈のレベルではすんなり納得することは出来ない、と 正直に申し上げます。
私が本書における「悪魔の弟子」の解釈を読んで一番疑問を覚えるのはここです。
その手紙の中で、自分は妾の殺人に関して無罪であると訴えながら、自分が妻を殺そうと思うように至ったことを「あなたから受けた あの恐ろしい毒蛇の毒」に起因するものとする。それでこの場合の本当の殺人者は自分ではなく、今や検事となっている、しかも主人公と違って「異性に対して 全く興味を持たない」昔の恋人である「あなただ」と主張している。(中略)恐ろしいことに、殺人行為に対するこの巧みな責任の移転によって、この小説にお けるすべての「悪」の根元は一人の、作品の外側に存在して反論の機会すらない同性愛者にあるということになってしまう。(129ページ)
私の感じる疑問――それは端的に言うと、果たして主人公は本当に検事を「犯人」と(上記の表現に従うなら「「悪」の根元」と)して告発しているのか? という事です。責任転嫁であろうと何であろうと、本当の意味での「犯人」は彼なのだと、そう告発しているのだとすれば、その同じ口から、
土田さん。三たびあなたに、あの友情の名においてよびかけます。どうか、私を信じて下さい。そうして私の云う事を信じて下さい。(「悪魔の弟子」・『浜尾四郎全集1』桃源社)
というような言葉が何故発せられるのか。「本当の殺人者」として告発した相手である土田検事に対し、主人公はこれほどまでに何を「信じ」てもらいたいのか――。 どういうわけか本書における解釈では、その答えが全く見当たりません。ここに私は不自然さを感じます。 先に引用した部分に含まれますが、再度引用して検討してみましょう。
この小説の効果は、つまりここで「悪魔」とされている人物をこれほどに気持ち悪い存在にしているのは、彼が「異性に対して全く興 味を持たない」ことによる要素が大きい。主人公の方は、自分の同性愛を「治し」女性との「健全な」関係に入るのだが、それがうまくいかない時に(要するに 彼女を殺そうとするときに)、その責任をかつての同性愛の恋人であり、女性に魅力を感じないからこそ怪物のように描かれる、かつ実に支配的で権力的な「あ なた」に負わせる。読者はテクストによって、この主人公の考え方を非難するように促されはするものの、同時に彼の不運を哀れみながらも、悪魔とされる彼の 恋人の方に対してよりいっそうの嫌悪感を覚え、しかもこの人物を恐れるようにさえも促される。(129~130ページ)
主人公が何故土田検事に向かって「どうか、私を信じて下さい。」と懇願するのか、やはりその答えは見当たらないように思います。論者はこの、主人公がただひたすらに土田検事の共感・理解を求めてやまない行動を敢えて見ないことにして、「かつての同性愛の恋人」が犯罪の責任を一方的に押しつけられ、読者が彼に「嫌悪感」や「恐れ」を抱くよう促させる、というテクスト上の力学によって、土田検事が孤立・排除させられてゆく、と結論を急いでいるように見えます。 この場合の孤立・排除とはいうまでもなく「健全な」男女関係のみによって構成される社会からの孤立・排除を意味するわけですが。
繰り返しますがこと描写という事に関して――その描写が我々読者の解釈を無意識的に歪ませるよう「促す」効果を生んでいる、という事に関して ――私は「悪魔の弟子」は論者が批判する通りのテクストだと思います。浜尾四郎は確かにこの小説において、全く無意識にであっても、同性愛者の孤立・排除を「促す」よう読者を呼び込んでしまっていると認めざるを得ません。
ですがそれはそれとして、浜尾が描いた主人公の叫びを読み解かずに放っておくというのはあんまりだと思います。「数世紀にわたって浸透してきた同性愛と病気と死とを関連づける文化的連想」の典型として挙げられているにもかかわらず、そして論者によって読者が「この人物を恐れるようにさえも促され」るテクストであるにもかかわらず、物語の主人公はその「恐れるようにさえも促され」る人物に向かって「私の云う事を信じて下さい」と訴えているのです。この「信じる」の意味とは何でしょう。
それこそ私は過去の同性愛経験に基づき、なおかついわゆる性的嗜好の域を超えた、友情・同情への呼びかけなのではないかと思います。青春時代を濃密に共有した人間同士だからこそ自分の事を理解してくれるだろう、理解してもらいたい、というある意味根拠のない、しかし強烈な願望。そして恐らくこういう感情を何の疑いもなく文章に出来るのは、旧制高校などで同性愛文化を実感を伴って経験した事のある人々だけであろうと思うわけで、その意味で少なくとも「悪魔の弟子」における浜尾四郎の文章は小説家の単なる空想や、社会的偏見の無意識の発露ではない、一種のリアリズムである、と解釈しています。従って、
しかし読者が持つだろうこれらの反応はすべてが浜尾の文章の巧みさに起因するものではない。むしろこの小説は、その劇的効果を生み出すために、当時の社会に既に存在していた同性愛者への嫌悪感を、動員しているのである。つまり、同性愛者を女性(この場合は、即ち家族や生殖=生)と 無関係な、「非社会的」で不気味な、ひいては殺人的な「悪魔」のように捉える同性愛嫌悪を。
という解釈には異論を差し挟まざるを得ません。
土田検事は同性愛者として十字架を背負わされる為だけに存在しているのではなく、主人公の犯罪の異様な背景を理解する事が可能であるただ一人の人物として選ばれてその場にいるのです。むしろそちらがメイン。浜尾四郎はそれを意図して同性愛の関係を二人の間に敷いたと推測する事は十分可能でしょう。そこには「同性愛嫌悪」は存在しません。あるのは自分をわかって欲しいという只一筋の熱情のみ。
テクストとは書かれたものの事であって書きたかった事そのままではあり得ず、そして解釈とは多様なものですから『ゲイ・スタディーズ』における 「悪魔の弟子」の解釈が間違いだ、という事ではありません。ただ、「悪魔の弟子」は単に「同性愛嫌悪」を喚起するだけの小説ではない、というのが私見です。
(記、2003/9/18-24)