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クスリの街 【EPISODE #04 / SEASON 1】
木曜日、久しぶりに晴れた。ここ最近、木曜日は雨というイメージが記憶に定着していたが、ようやくその印象から脱出できそうだ。
今週はヒゲの総帥にとって、少々変わった一週間だった。つまり、面倒くさくて誰もやりたがらないような、肩の凝る仕事の依頼がいくつか舞い込んできたのだ。この場合、「誰もやりたがらない」は『短納期』を意味し、「肩の凝る」というのは『お偉いさん』を指す。
そんな事情もあり、木曜日の到来を楽しみにしていた。酒が飲みたくて仕方がなかったのだ。
18時10分頃、コロマンサに向かう。建付けの悪いガラス戸を開けると、テーブルの上に茶色の大判紙を広げている版画家、万作の姿があった。万作はこちらを一瞥するなり、そそくさとその紙を丸めてどこかへしまう。
なんとなく秘密めいた行為ではあるが、万作のこの所作には隠れキリシタン的な特徴がある。真に隠したいものであれば、開店直前までテーブルに広げておくことは不用心だし、本当に見せたいものであれば、万作自身が「これを見てほしい」と歩み寄ってくるはずだ。
つまり、彼の中では「隠したいけれど見せたい、見せたいけれど隠しておきたい」という葛藤が続いているのだろう、とヒゲの総帥は感じた。そんなことを考えながら、先週切れたギターの弦を張り替え始める。
「1本切れただけなのに、全部取り換えるんですね」と万作が言う。
「そもそも僕は弦を切らない弾き方をしているんです。それなのに切れたということは、弦の寿命が来ていたんだと思います」と、ペグを回して調弦しながら答えるヒゲの総帥。店内にはショパンがまあまあの音量で流れていたが、万作が気を利かせて音量を下げてくれる。
トントントンと鳥のような足音が店の階段を上ってくる。扉が開き、顔を出したのはファラオだった。ニコリともしない。なで肩で色白のファラオは鞄の中からもぞもぞとスナック菓子を取り出し、それを頭に筆を突き刺した万作に手渡す。
どこにでもある「店内持ち込み」の光景だが――ヒゲの総帥には、この光景が、スナック菓子というツールを媒介にして、意欲的な宣教師が外部の文明を拒む北センチネル島の原住民に接触を試みる様子に見えて仕方がなかった。無性に笑えてくる。通過儀礼を終えたファラオは、神妙な顔つきのまま、店の奥にいるヒゲの男の方へ向かってくる。
しばらくすると、赤ら顔の冷泉がやって来た。ヒゲの総帥は前日、インテックス大阪で開催された『フードテック』を見学した際に見つけた面白いAIの話を始める。
「日本酒ソムリエAIというものでね、自分が飲んでいるお酒をソムリエのように言語化してくれるだけでなく、ディスプレイに可視化してくれるんですよ。これがもう楽しくてね」と、総帥は嬉々として語る。
「官能評価というのが面白いですね。日本酒の成分を可視化したところで、何も面白くないですから」と冷泉が的確に要点を突く。
しばらくして、チョコレート好きのアヤ姉がやって来た。彼女は自分でチョコレート品評会を開くほどの熱量を持つ、筋金入りのチョコレート愛好家だ。しかし、そんな彼女が「一番好き」と断言するのは、ロッテの『クランキー』である。庶民派の選択に、ヒゲの総帥は共感する。
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ちなみに総帥は森永製菓の『ぬ~ぼ~』を推進する。
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森永製菓『ぬ~ぼ~』は1988年に発売された。当時の駄菓子としては強気の50円という価格設定だったが、その美味しさは他の駄菓子を凌駕していた。幼い頃に体験した鮮烈な味の記憶は、忘れることがない。もう二度と同じものを食べても同じ感動は得られないと知りながらも、駄菓子屋を訪れるのは、自分が自分であったことを確かめるためなのかもしれない。
半年前、田代まさしと話をしたことを思い出した。そのときヒゲの総帥は「ぬ~ぼ~」のことなどすっかり忘れており、社会復帰を果たした田代が監督した極道ものVシネマ『鯨道シリーズ』について尋ねたかった。なぜシリーズ途中で監督を降板することになったのか――。
サングラスにヒゲの田代は、朴訥と語り始める。隣ではデザイナーの浦部君が興味津々で耳を傾けている。
「僕、ダジャレが好きなんですよ。それで、どうしてもダジャレを映画に散りばめたくて。でも、それがヤクザのイメージに合わないって怒られて……」
当時のことを思い返しながら語る彼の姿に、ヒゲの総帥は腹を抱えて笑った。そしてその笑いは、次第に彼への敬意へと変わっていった。
話は木曜会に戻る。
看護師を休業中の闇落ちのリサがやって来た。冷泉とは中学生時代の馴染みで、現在は彼が主催するトレーニングジムにも日曜日には必ず参加しているという。前回の木曜会では金髪、その前の回では黒髪だった。「髪の色を変えてみたら」という心理カウンセラーのアドバイスを受け、素直に茶色に染めたというリサには驚かされる。
「髪の色を変えることで、ある程度、得られたものがありました」というリサの言葉は、真剣であればあるほどよくわからない。それこそが彼女の魅力なのだろう。
例えば――地球を滅ぼす爆弾があり、それを解除するためには赤い線か青い線を切らなければならないとする。彼女は泣きながら、恨みながら、どちらの線も切ってしまうだろう。そんな豪胆さを想像し、ヒゲの総帥はニタニタしてしまう。
「2つとも切るバカがあるか、この野郎」と死にゆく人類からの阿鼻叫喚に対して、闇落ちのリサはこう言う「ある程度、得られたものがあった」と。
チョコレート好きのアヤ姉が闇落ちのリサに「冷泉さんって子供の頃はどんな人だったんですか?」と尋ねる。
「今のままですよ」と答える前に、その場にいる誰もが「おおよそ今のままだろう」と感じていた。冷泉は自分の子供時代を思い出しながら、俳人のように口を開く。
「腕を、嚙みつかれたり、してました」
その一言に一同が爆笑する。
次に、ビリヤード愛好家のハスラー明神がやって来た。今回の木曜会では冷泉が『AIとDX』をテーマに深い話をするというコンセプトを掲げていたが、参加者全員が求めていたのは、ハスラー明神のビリヤードの話だった。
彼は中学生でビリヤードに出会い、高校生で師と仰ぐ人物を見つけ、それ以来、趣味として深く関わり続けている。70万円もするマイキューを持つ友人など、ヒゲの総帥にはいない。だからこそ、彼の話を聞く価値がある。
―流れ者のように知らない土地で腕試しすることとかあるのですか?—
恐る恐るヒゲの総帥はハスラー明神に訊く。総帥はこの「流れ者」という言葉が大好きだ、来世があったとしたら迷わず流れ者になりたいと心の底から願っている。流れ者、終着のない列車、個人個人で違う言語を喋る世界、色の違う太陽が4つくらいのぼる汚れなき朝。来世こそは。
ハスラー明神は慎重に言葉を選びながら「ありますよ」と答える。格好良い。「最近では、嫁の実家がある南信州に行ったとき、そのエリアに一軒しかないビリヤード場に行きましたよ」とハスラーは教えてくれる。
マイキューを南信州に持って来る客など一般的ではない。ローカルな店で見慣れぬハスラー、店に集う地元の男たちの視線が突き刺さる。ハスラーは男たちのその視線を楽しみながら、孤独にキューで球を突き続ける。コトッ、コトッと球が落ちる音が手に取るように想像できる。
店のオーナーがハスラーに声を掛け、いつしか地元の名人とのマッチアップが組まれることとなったそうだが、5戦5勝したのだそうだ。自身の体験を辿りながら我々に様子を語るハスラーの顔は、誰よりも輝いていた。
いつの間にか来ていた、映像ディレクターのタケちゃんが「オレもそういう話しがしたかった」とハスラーの話しを受けて悔しそうに言う。
悔しいには理由がある。タケちゃんは『ストリートファイターⅢ』という格闘ゲームが好きで、ハスラーと同じように自分の腕試しのため知らない土地のゲーセンへ行き、地方で負け知らずとなり伝説の男になろうと画策したことがあったが、遠征はしたもののとにかく負け続けたため、彼が望んだであろう伝説ではなく、黒歴史となってしまったのだそうだ。
タケちゃんの黒歴史の話しを聞いて、冷泉が唐突に「ハッ」とした顔をする。ハスラーからタケちゃんへと話題のタスキがわたるところを見て、何か思い出したのだろう。
「今日、僕、酔うと、顔が赤くなる日ですね」
冷泉はすぐさま総帥の方へにじり寄ってきて、何かギターで演奏してくれと言う。場面転換なのか場つなぎなのか、その両方なのか何なのかわからないが冷泉は音楽を効果的に利用する。若い頃はマックス・カヴァレラに心酔していたというIT参謀は絶賛「酒と泪と男と女」を特訓中だ。
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ヒゲの総帥は張ったばかりのギターをチューニングする。低い音の方からECDGABへとして、7番フレットにカポタストを篏合させる。
♪『(When I die) I shall go up to heaven like that bird 』
新調された弦はキラキラと光沢のある音を響かせる。弦を張り替えるのは面倒くさいが、張り替えたばかりの音は実に透明感がある。いつしか透明で弾んだ音も失われていくが、また面倒くさがりながら弦を張れば良い。
木曜会はここから新たに製薬関係の男たちが5名ほどやってきて、北浜がかつても今もクスリの町ということを感じさせてくれる。