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NHKは殴られる 【EPISODE #10 / SEASON 1】

ヒゲの総帥は、木曜会前日に有給休暇を取った。

手元には、読みかけの本が幾つも積み上げられている。さらに、手を付けられていない本が幾冊か。そんな中で気になるのは、アテネを起点としビザンチン帝国(東ローマ帝国)において発展した西側とは異なるキリスト教(東方正教会)の道程である。それは、どのようにして現在の版図に至り、広がりを見せたのか。

この探求心は、哲学者・清眞人氏からの依頼がきっかけであった。氏が新著『新ランボー論』を上梓するにあたり、その論評をヒゲの総帥に託したため、改めて東側のキリスト教について知る必要があったのだ。

清眞人 (1949 -  )
日本の哲学者、元近畿大学教授

フランスの詩人アルチュール・ランボーは、ヒゲの総帥にとって憧れの存在である。依頼が届いたとき、心は大いに躍った。だが、年末という時期が災いし、結局東方正教会について深く学ぶ時間を持てなかった。もちろん、これは言い訳である。

さらに、ヒゲの総帥には『秘島図鑑』という本も手つかずで残されている。日本に点在する秘島の歴史や背景が簡潔にまとめられたこの本は、ユーモアと明快さが魅力だ。特に「秘島」の定義が興味をそそる。

【秘島】——。
①リモート感がある
②孤島感がある
③もの言いたげな佇まい
④行けない。島へのアクセスがない
⑤住民がいない
⑥知られざる歴史を秘めている

清水浩史著『秘島図鑑』より引用

総帥が本屋でふとページをめくったとき、「南硫黄島」の記述が目に飛び込んできた。その瞬間、心を奪われ、勢いのままレジへと進んだ。サマセット・モーム著『月と6ペンス』にてゴーギャンの人生に触れて以来、人工的・通俗的な枠組みから解放された南海の孤島には関心を寄せている。

南硫黄島
ポール・ゴーギャン (1848 - 1903)
フランスのポスト印象派の画家。

ちょうど香川県の実家に帰省していた時期、暇を持て余して読書でもしようと意気込んでいたが、子供たちが炭火でマシュマロを焼きたいだの、ピザ窯のある店に連れて行けだのと騒ぎ立てる。結果、読書は中途半端に終わり、本は置き去りにされたままだ。これもまた、言い訳である。

こうした未読本たちの無言の叫びが日増しに大きくなり、有給休暇を使って一気に片付けようと思い立ったのだ。

しかし、有休前日。アラタメ堂のご主人から召集がかかり、ヒゲの総帥はギターを抱えて吹田へ向かった。その結果、散々に泥酔し、水曜日は約20時間も眠り続けた。どの本も1ページすら開かれることなく、この計画もまた無に帰したのだった。

さて、木曜会——。

19時頃、コロマンサに入店すると、冷泉がすでに座っていた。そして、木曜会とは全く関係のない「カイチョー」と呼ばれる老人の姿もあった。カイチョーはヒゲの総帥が入店するのとほぼ入れ替わるように退店しようとしていたが、会計の際に一万円札を取り出す。

「う~ん、お釣りあるかな?」(万作)
「ああ、ええよ、釣りは取っておいて」(カイチョー)
「いやいや、嬉しいけれど、そないな訳にはいきません」(万作)
「取っておいたらええのに」(カイチョー)

この日本中どこででも繰り返されるような定型文の応酬を二人は延々と続け、最後にはなぜか、ヒゲの総帥と冷泉に視線を送りながら「きちんとお釣りはカイチョーさんに返しますんで」と言い放つ万作。

総帥と冷泉は心中で「何のアピールやろ」と不思議に思ったが、なるほど――万作は「カイチョーを階下まで見送ってきます」と言いながら、一万円札を自分のズボンの左ポケットにこれでもかというほど押し込んでいた。

客を見送り、店内に戻ってきた万作の表情には、抑えきれない嬉しさが浮かんでいる。それを必死に噛み殺そうとするその顔は、思いも寄らぬ奇跡に見舞われた人間が感じる一種の神秘的な喜びに似ていた。

しばらくして、VR空間クリエイターのMYO君が店にやって来る。

「多様なユーザーが自分の創り上げた世界の中でユニークな体験をしてくれるのが、本当に嬉しい」と語るMYO君。その姿は、映画『ラスベガスをやっつけろ』に登場するジョニー・デップ(デューク役)を彷彿とさせる。どこか浮世離れした外見に加え、邪気のない目で自身が夢中になっていることを語る彼は、まるで精霊のようであった。

映画『ラスベガスをやっつけろ』
(原題: Fear and Loathing in Las Vegas)
1998年制作のアメリカ映画。テリー・ギリアム監督。


そして、酒を手にWEBディレクターのアラタメ堂のご主人がやって来る。その後を追うように常連の不思議な女も現れる。冷泉はここで義理を果たすため、一旦、木曜会を抜けた。ヒゲの総帥、MYO、アラタメ堂のご主人、常連の不思議な女がテーブルを囲んだものの、何の話をしていたのか総帥の記憶には全く残っていない。

小一時間ほどして、冷泉がCEOシゲオを伴ってコロマンサに戻ってくる。冷泉によれば、ミナミにある『Fランク』という店に顔を出すのが義理事だったようで、そこでCEOシゲオと合流し、木曜会へ連れ戻したのだという。

データプロバイダー会社のCEOシゲオと冷泉は、コロナ前まで都内のマンションを共同で利用していたという。ただし、活動時間がほとんど重なることがなかった。シゲオが朝目を覚ますと、泥酔した冷泉が床に転がり、ミネラルウォーターのペットボトルが床に散乱している。という有様だった。

ただ、一度だけCEOシゲオが冷泉に立腹したことがあるという。そのエピソードをシゲオは嬉々として語り始めた。

高層階のマンションに出るはずのないゴキブリが現れたのだ。

シゲオは「誰かが連れ帰ってきたのではないか」と仮説を立てる。路上で寝転んだり、草むらに倒れ込んだりして、そのまま部屋に戻るような男はいないかと考えた結果、冷泉が犯人ではないかと推理したという。冷泉はその話を聞きながら、素直に「あ、それは多分、ボクですね」と認めた。

また別の日、冷泉が虫の居所の悪い状態の日。タイミング悪くNHKの徴収員がマンションのインターホンを押してしまう。これに冷泉の怒りが爆発。「NHKの人間を殺そうとした」と言う冷泉を、シゲオが必死に止めたという逸話も披露された。

「まあまあ根性あるヤツやったな」と当時のことを振り返るシゲオ。冷泉も「そうなんです、アイツ根性ありましたね」と相槌を打つ。彼らがNHKの料金を支払ったのかどうかは、あえて聞かなかったが、ヒゲの総帥は「唐突に根性を試される仕事はイヤだな」と内心で思った。

ちなみに、木曜会メンバーのファラオも一時期、大阪から遠く離れた地でNHKの徴収員をしていたことがあり、その職務中に訪問先で殴られた経験があるそうだ。

なんとも気の毒な話である。

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