ホテルのシーツ 【EPISODE #7 / SEASON 1】
「おおっ」
ヒゲの総帥がドアを開けて入ると、コロマンサはぎゅうぎゅうに人が詰め込まれ、木曜会は万作にとって嬉しい悲鳴の上がる百鬼夜行と化していた。これには主催者である冷泉も、総帥も、「雨が上がれば良いことがあるね」と共通して感じたことだろう。
早速、店の扉側に一番近い座席で酒を飲んでいるのはWEBディレクターのアラタメ堂のご主人だった。この日、総帥は仕事を切り上げ、ラジオで共演してくれた自由研究さんと共に船場センタービルにある「天友」を訪れ、その後コロマンサにやって来た。いつものように腹を空かせながら酒を飲むことがなかったのは救いだった。
万作は木曜会では食事を作らないと宣言している。どういった根拠でそのような強い信念を打ち出すようになったのか、ヒゲの総帥はすっかり忘れてしまったが、とにかく彼は頑なにフライパンを振ることを断るのだ。
ニコリともせず、ただ粛々とトマトジュースを飲み続けるファラオ。その姿は北浜には不似合いで、かといってエジプトにも似つかわしくない。どちらかと言えば、トランシルヴァニア地方に迷い込んだような錯覚を催すと記す方が正確だろう。赤い液体を口にする無愛想な王――トマトジュースを飲むファラオはそんな存在感を放っていた。
この日は、まるで木曜会の役員会のようなメンバーが大勢揃っていた。註:木曜会に役員会は存在しません。
また、データプロバイダーの会社を経営するCEOシゲオと3名の社員、元ライフプランナーの女、芸能プロダクションを経営するSSKMSYK、自由研究さん、常連の不思議な女など、個性豊かなキャラクターが店内で渋滞していた。
総帥は21時を過ぎて店に到着したため、それ以前に誰がいたのかまでは知る由もない。入店時に「あ、これは報告書に全部書けないわ」と責任放棄を決め込んだ。
というのも――。
この夜、コロマンサで冷泉が見知らぬおばさんに後頭部を叩かれ、眼鏡が吹っ飛ぶという事件が発生したらしいが、ヒゲの総帥はその現場を目撃していない。猫の額ほどの狭い店内で起きた出来事が、こちら側には全く届かないという混線状況だったのだ。一方、この場のコンセンサスが揃わないカオスさこそが、木曜会の面白さでもあった。まるで独立した部隊が、それぞれの作戦を遂行しているかのようだ。
「歌いたい、歌いたい、なんかみんなで歌いたい」と冷泉が鬨の声を上げる。総帥がギターを手に取り、スピッツの『ロビンソン』を弾き始めると、店内に皆の歌声が響き渡った。その合間に、ラップのように冷泉の掛け声が挟まる。「強め、強め、もっと強めで」。
冷泉のエネルギッシュな姿に、時代が違えばこの人は「乱」とか「変」を起こしてたんちゃうかなと、ヒゲの総帥は思う。
別世界過ぎて、さっさと帰るだろうと思われていた自由研究さんは、意外にもまだ帰らない。彼女はコースケ君からSNSのバズらせ術を、SSKMSYKからアイドル業界のいろはを学び、さらにメタバースのMYO君からも何かを吸収していたようだが、その内容についてヒゲの総帥は全く聞いていなかった。
オルガン横の椅子に穏やかな表情でそのまま入定しそうなシゲちゃんの姿があった。その顔が、妙に印象的だった。数年前、ヒゲの総帥は自分が今さら社会人として生きていけるのか非常に不安を感じていたタイミングで、彼に質問したことがある。
―事業が失敗するのは怖くありませんか―
CEOシゲオは答える。「社員の生活のことを考えると、不安がないわけではありません。でも、もし会社がアカンくなっても、僕自身に限ればどこででも採用してもらえる。それくらいの自信はあります」と。
この言葉をこうして書き起こしてみると、平易で何のひねりもないように思える。しかし、真理というものは、こうした平易な言葉の中にこそ宿る。大仰な表現である必要などない。ヒゲの総帥は、この一言で自分の道が切り開かれる感覚を覚えた。
そうか、自分にもっと自信を持てばいいのか――。まるで小学生が気づくようなシンプルな真理だったが、その言葉がなければ、今のように夢を持ちながら会社員として働いている自分はいなかったかもしれない。人と人との縁とは、実に数奇なものだ。誰のどんな言葉が自分に響き、また、自分の何気ない発言が誰かに影響を与えるのかなど、まったく予測できない。
相手を「この人の言葉なら聞いてみよう」と思わせるコツ。それは、この無警戒でほがらかな顔にあるのかもしれない。
ホテル暮らしをしている芸能プロダクション社長、SSKMSYKがふいに妙な独白を始めた。「ホテルに戻ったとき、ベッドカバーとシーツがピチッとなってるのがイヤなんです」と。総帥もこれには同意する。ピチッとし過ぎたベッドの感触は、レクター博士の拘束具をつけたまま寝るような窮屈さを感じさせる。これまでホテルで何度かそんな不快感を味わったことがある。
その話を聞いて黙っていられないのは、ホテル清掃の統括マネージャーであるファラオだ。
「いやいやいやいや、長期滞在のお客さん目線ではそうかもしれませんけどね。でも、初めて泊まりに来たお客さんにとっては、ベッドメイキングがピシッとできていないとクレームになります。10円玉を落としてもシーツの上でバウンドするくらい、ピシッと仕上げるのが基本なんです!」と熱弁を振るう。
木曜会も日付を越え、1人去り、2人去りしていく。
楽しさの余韻に浸るあまり、終電を逃してしまったホテル清掃の統括マネージャー。先ほどまでの熱弁とは裏腹に、「勤務先のリネン室に潜り込んで、ホームレスみたいに寝ます」と冗談とも本気ともつかない言葉を残し、堺筋から御堂筋方面へとトボトボ歩いて去っていった。
街の装いはすっかり春めいている。本町では、新入社員らしき若者たちが群れをなして、どこからともなく現れ、どこかへと向かっていく。毎日毎日、新しい何かが起きそうな予感がする。約30年前の『ロビンソン』という曲が今でも日本のどこかで歌われ続ける理由も、きっとそんなところにあるのだろう。
ヒゲの総帥が世界で最も好きな『ロビンソン』は、総帥がギターを弾き、娘が歌うバージョンだ。特に教えた覚えもないのに、彼女はどこかしらで曲を勝手に覚えたようで、ウグイスのような声で歌う。
ルララ、宇宙の風に乗る。