「えっ!」と感じる待ち合わせ 【EPISODE #02 /SEASON 1】
また雨が降る。ヒゲの総帥は自社の会長シュクゾウが退社するのを待ちながら、会長室(社員からは職員室と呼ばれている)の扉が開いている隙間からその様子を覗いていた。帽子を取り、コートを着ようとモタモタしている様子から、そろそろ帰る頃だろうと考え、ヒゲの総帥も帰宅準備を始める。そしてタバコを吸いに行った。
もういい頃合いだろうと会長室を覗き込むと、シュクゾウがマフラーを巻いている最中だった。一体何をとろとろしているのかとヤキモキするヒゲの総帥。しかし、シュクゾウが巻いているそのマフラーが、2年前に総帥と同僚のフジイさんが贈ったものだと気づき、腹立たしさが一気に和らいだ。90歳。どこか可愛らしくもある。
いや、可愛くはない。
ヒゲの総帥はシュクゾウが帰ったのを確認すると、雨の中を足早に北浜へ向かう。今日は木曜会の日だ。向かう先は版画家の柿坂万作がいる「コロマンサ」。法律上厳密には、柿坂万作が占拠している場所だ。
店のガラス戸の前には、傘立てに何本もの傘が差さっている。「あれ?今日はこの天気なのに盛況なのか」と思いながら店内に入ると、ガコッと音を立てて開いたガラス戸の向こうには、白髪を筆で束ねてちょんまげのように結った万作の姿だけがあった。傘は過去に来店した客が忘れていったものが積み重なった結果らしい。
万作はアニメを観ていた。「あ〜、もう15分くらいで終わりますから、ちょっと辛抱してくださいよ」と言う。アニメが終わりかけた頃、ドンドンと特徴的な足音を立てながら階段を上ってきたのは、木曜会の共同開催者でありAI魔改造の冷泉だった。
出会った頃の冷泉は全身黒のスーツを着込み、髪型は樹脂で固めたような分厚いものだった。しかし、いつの間にかパンチパーマになり、さらに髪の半分がなくなり、そして今は坊主頭になっている。
「もう髪型について考えるのが面倒になったのだろう」とヒゲの総帥は共感を覚える。
冷泉は総帥の向かいに座り、ウイスキーのショットと濃いめのハイボールを注文。テーブルの上でいそいそと巻きタバコを作り始め、その隣には黄色いアメリカンスピリッツの紙タバコを置いている。まるで醤油ラーメンのおかずに味噌ラーメンを添えるようなこの光景に、ヒゲの男はコミカルさと刹那的な狂気を感じる。
冷泉のすぐ後に現れたのは、雨の中、重そうな手提げ袋を抱えたファラオだった。冷泉を見た後にファラオを見ると、その体格の違いで自分とファラオとの距離が遠くに感じる錯覚を覚えることがある。冷泉は「ChatGPTの魔改造がいかに面白くも大変なものか」を語り始めた。ヒゲとファラオは「ふんふん」と頷きながら聞いている。
その時、万作が唐突に言い出した。「総帥にちょっと聞きたいことがあるんですが」。総帥は「もちろん、どうぞ」と答える。
「ワシが思うに、月が地球に落っこちてこんのは、月の重力が弱いからやのうて、月の回転運動に関係するもんやないかと思うんです。世間一般で言われとる月の引力より、もっと大きな力が月にはあるんやろう。月が地球の周りを回っとるんやなしに、地球が月の周囲を回っとると考えたほうが合点がいくように思うんですけど」
まったくわからない。
「さすがですね、万作さん。ニュートンも同じことを考えたんですよ」と、ヒゲの総帥は適当なことを言い出す。取りあえず、先に正解を見せた方が話しがややこしくならずに良いと考えた総帥。地球と月がどうして今の位置関係を保っているのかを万作の造形物である大きな竹細工の球体をモデルにして説明する。
この球体を地球だとして万作さんがボールを投げます。すると地面に落ちます、ボールに与える速度をもっともっと考えられないくらい強大にして投げたと仮定すると、いつしか投げたボールが地球を一周して地面に着地せずに円軌道でぐるぐると回るようになります。全てが釣り合っている状態が今で、月は地球に落ち続けているとも言えます。
ヒゲの総帥は万有引力の法則と遠心力とを説明し終え、自席に戻ると、ようやく落ち着いてウイスキーを飲み始めた。この説明は以前、自分の子供たちにもしたことがあり、感覚的に理解してもらうには最適な方法だったのだ。
「う~ん、地球の方が月を回っとるほうが、ワシの計算には合うんやけどな」と万作が呟く。
「えっ!」と総帥は驚いた。腑に落ちていない万作の態度に、少し面倒臭さを感じる。その様子を見た冷泉とファラオが、ニヤニヤと笑い出した。
「月は、年に3センチずつくらい、離れて、いってる、そうですね」と、酩酊した冷泉が、覚えたばかりの日本語を話しているかのように、ぎこちない調子で続けた。
「ワシもそれ聞いて、ははんと思ったんですわ」と万作は、冷泉の言葉をきっかけに、さらに論を展開・推進しようとする気配を見せる。
いやいや、万作さん。年に数マイル単位で社会から離れていっているあなたからすると、そんなの誤差じゃないですか。宇宙なんて、大したことないやん。ヒゲの総帥はそう思ったが、それを口には出さず、胸の内にしまっておくことにした。
その時、映像ディレクターのタケちゃんが、絶妙なタイミングで現れる。冷泉はすかさず、「ファラオ、なんかゲーム出そや、はよ」と、脅迫じみた調子で問いかける。ファラオはそそくさと大袈裟な手提げ袋をまさぐりながら、ゲームの箱を取り出した。
こうして、月と地球の関係についての話題は、そこであっけなく中断されることとなった。
「お、さっそくゲームを始めてるじゃないですか」と店に入ってきたのは、WEBディレクターのアラタメ堂のご主人だった。アラタメ堂のご主人は、自身で購入した高価なウイスキーを万作に差し出す。
仕入れの資金がない万作のために、アラタメ堂自身が飲みたいウイスキーを好意でコロマンサに持参し、さらにそれをアラタメ堂が飲む際には万作に追加で金を支払うという、非常に稀有で歪な商売の光景がここでは展開されているのだ。
一方で、ファラオが取り出したゲームは『GUESS CLUB』というものであった。
「最初のお題はおにぎりの具にしましょう」とファラオが提案する。
ヒゲの総帥、冷泉、アラタメ堂、タケちゃん、ファラオ、そして万作が、それぞれホワイトプレートにおにぎりの具を書いていく。梅干し、昆布、高菜、明太子など、定番の具材が並ぶ中で、誰と誰の回答が一致したかを検証してみるが、結果的にそれほど盛り上がらなかった。
「お題がどうも貧弱だね。次は僕がお題を考えるので、それについてみんなで回答してほしい」と、ヒゲの総帥が提案する。
「えっ!となるってことは、違和感があるということですよね」と、アラタメ堂のご主人がお題を再確認する。
「なんでここなんやろう、とか、マッチングアプリならではの“ダマされてる感”がある場所で、しかも他の回答者も選びそうな絶妙なところを狙わなあかんわけやね」と、タケちゃんも改めてお題を確認する。
1番:ファラオ 『長田駅』
全員がファラオのその絶妙なチョイスに舌を巻き、そして爆笑した。
「長田駅から先に行くと近鉄の初乗り料金がかかるので長田駅どまりで待ち合わせをするというのが肝ですね」とファラオは得意そうに選考理由を述べる。他のパネラーたちで長田駅を提示したものがいなかったため、ファラオは0点ではあるが、あまりに面白かったので『冷泉名誉賞』が贈られた。
2番:冷泉 『恵美須町駅』
冷泉のこの回答はアラタメ堂の回答の1つと合致したため、冷泉はポイントを獲得することとなった。
3番:総帥 『中ふ頭駅』
「誰がこんなところで会うんですか、それに中ふ頭駅は大阪市営地下鉄の駅じゃなくてニュートラムですよ」とアラタメ堂のご主人からの物言いをキッカケに他のパネラーから審議が要求される。その結果、記録なしということになってしまった。ヒゲの総帥にしては手痛い失態である。
4番:タケちゃん 『千里中央駅』
「いきなり一緒に住もう的な感じがあるから、えっと思うかも知れんね」とタケちゃんは自身の回答を理由付けして開示してくれるが、ファラオから待ったが入る。
「千中は北大阪急行なので、総帥と同じで大阪地下鉄には入らないですよね」とファラオの鋭い突っ込みがタケちゃんに向けられる。
「あれ?御堂筋線の終点やなかったっけ?」とタケちゃんは言うが、「御堂筋の終点は江坂駅までですよ」と完全にファラオに論破されてここで終了となる。
5番:アラタメ堂 『井高野駅』
「バスの車庫としてしか出てこない地名じゃないですか、ここで待ち合わせは怪し過ぎますよ!」とヒゲの総帥はしてやられたという顔をする。「赤字路線ですよ」とアラタメ堂のご主人は自身の回答に満足そうだ。
げらげらと笑い合っていたものの、「自分の回答が誰かと一致することがポイントになる」というのが本来のゲームの主旨であったにもかかわらず、いつの間にかただの大喜利大会と化していたことに気づくと、一同は急に口をつぐんだ。静けさがやってくる。
「そしたら、殴り合いでもしましょか」と冷泉が唐突に言い出す。
外では夜の雨が降り続き、日付が変わろうとしている。やっぱり、地球は今日も変わらずしっかりと回っているのだろう、とヒゲの総帥は知った。