お喜楽プロジェクト:中編 【EPISODE #18 /SEASON 1】
6月某日 朝の9時00分——。
東北本社(名取市)の会議室へ赴く。手土産に選んだのは、京都の銘菓「阿闍梨餅」である。この菓子の名に含まれる「阿闍梨」という言葉には「先生」という意味があり、それは先方への敬意を示すにふさわしいものであると同時に、私自身がこの場で果たすべき役割をも暗に表しているように思えた。
京都という土地が持つ格調と阪急百貨店の品揃えの確かさ。それらが相まって、この手土産には、単なる贈り物以上の重みが宿る。贈る行為とは、単に物を手渡すことではない。そこには、相手への想いと、自分自身の在り方を映し出す鏡があるのだ。
会議室の末席に座り、一言、「こんにちは」と挨拶をする。その言葉はただの音ではなく、私の立場と心情を、静かに、しかし確かに伝えるものであった。
会議室にいる面々以外、オンラインから会議に入ってくる人も含めると、相当な数になっていただろう。というのも、オンラインでは、一切何の発言もせず参加しているだけの人も存在するため参加者の実数は感覚的にわからない。面倒くさいのでわざわざ「何人ですか?」とも聞かなかった。
会議が始まる前、ヒゲの総帥は、顧問のマルちゃんに問う。
「事前に提出してもらったA案に基づいて私の方で企画を作ったんですが、昨日になるとA案とは似て非なるB案が届いていたので驚きました。唐突にどうしはったんかなと混乱してます。アプローチの方向をどちらにするか全体会議で決めてくれないと、企画の作り込みができへんのです」(総帥)
ニコニコしながら初老の官公庁OBのマルちゃんは、汗ばみながら人懐っこい目を年下のヒゲの総帥に向け、柔らかな東北訛りでこう言う「総帥、コレについては私よりさらに上からの指示ですんで、私はそれに意見することなんてできませんので、ここはひとつ何卒ご理解ください。そういうことです」
うおお・・・と感じた。
初っ端から最悪の事態を想像させることになった。
ヒゲの総帥はすでに会議前から鉛色の雲のような圧力を受けて不安になった。上意に反発する者には「死」か「これからの人生において何のチャンスもない長い時間」が与えられるような気がした。
IoT事業ではあるが、ソリューションを起こそうとしている人間の上下関係そのものがソリューションの弊害となっている事実に気づいて、慄いたのだ。
心底、指揮者ドゥダメルのリハーサルを観ていて良かったと感じた。オーケストラにいる長老に対して、彼がどのようなアプローチで懐に飛び込んでいくのか、そして面倒くさい人間をどのように集団において活躍できる状態にしてしまうのか、大いに参考となった。
ミスれば小澤征爾とNHK交響楽団のように、とんでもないことになるのだ。ボイコットされては指揮者は何もできない。そうした事態に陥らないよう慎重に議論を進めていかなくてはならない。ヒゲの総帥はあらゆる専門分野の人間たちから集合知が出るように指揮をしに来たのだから。
しばらくして、マルちゃんの上役であるローマ教皇ベネディクト16世のような佇まいの爺さんがやってくる。「こいつがアタマか」とヒゲは心のなかで呟いた。以前、どこかで会ったことがあり互いの顔は知っていただけに、とても薄気味悪かった。やはりこちらも柔和な顔をしているのだが、どこか、おかしな顔に見えた。
基本的には上席アドバイザーの役割で入っている16世であるが、各々の項目について論議した結果、最後にはこの16世に「このような感じでいいでしょうか」と必ずお伺いを立てることがプロセスとして存在し、最後の最後に現場サイドから出てきたアイデアは、16世からの「それは官公庁には通じないでしょう」という一言でちゃぶ台を返されるのだ。毎回。毎回。
日々、この老人からの圧力に向き合いながら仕事をしていると、いつの間にか反抗する気もなくなるやろうなと感じた。そして、こうしたことは本プロジェクトだけではなく、日本全体に関係する現象ではないかとも考えた。組織の代謝の障壁となっていることに気づかず、または気づいているのか知らないが、権威にしがみつく不能な老人が多すぎる。
ただ、『喜楽』とだけ叫んでいれば良いものを。
しかし、放ってもおけない。プロジェクトの成功率を上げるためには、議論を混迷させる時間はすでにない。よって、磨き上げられた集合知を導くためには、早い段階で16世の攻略をしておかなくてはいけない。プロジェクト会議は静かにスタートした。
オンラインにて会議に参加していたヒゲの同僚フジイさんは、詐欺師といわれるヒゲの総帥がこの老人をいかに攻略していくのか興味津々だった。
外の戦いの前に、内部での戦いが始まる。朝9時から始まった会議だが、ヒゲの総帥は16世と午前中のうちに決着をつけなくてはと感じた。圧倒的な主導権を持つ爺さんと対決するには少し考える時間が必要だったため、総帥は会議の休憩を場に提案して、それは通る。
休憩のタイミング——。
東北本社の裏にあるサービスセンターの横に囲いがあるでもなく灰皿がポツンと置かれてあった。本プロジェクトの統括責任者である部長とタバコを吸いながら話しをした。年齢は50才くらいで好感の持てる日焼け具合、まっすぐだが威圧的でなく愛嬌のある目、常に現場で仕事をしている人だなとわかった。
「大変ですね、いろいろと」(総帥)
「そうでしょ」部長は優しく微笑みながらヒゲの総帥を見たあと、遠い目をする。そして誰に対してでもなく静かに言葉をつむぐ。
「新しいこと、私らだって、いっつも考えるんです。でも、古いもんがいまだに根強いですよ、ここは。かといって、悪いことばかりじゃねえんですが、変わりたいのに、変われない、そんなことばっかりやってるですよ」(部長)
寂しく切ない言葉を聞いて、ヒゲの総帥は思わず「どうせなら、無我夢中に本気で取り組んでみませんか」と言ってしまった。末席のままで良いのに条件反射的にシャシャリ出てしまった。口にした後、心の中で「あっ、言うてもうた」と後悔したが今さら遅い。
部長はアハハと笑った後、タバコを消して、真剣な目でヒゲの総帥に問う。
「総帥、(攻略)いけますか」
「多分、その役割のために僕は東北に呼び出されたような気がします」
ヒゲの総帥は、今になって思えばどうして実績も経験もない自分に白羽の矢が当たったのか謎であったが、一連のことに合点がいった気がした。自分の知らないところで、なんかいろいろと仕組まれてるなと感じ、笑えてきた。
「部長、今回の企画提案書について私たちは『王者の論理』で戦うと誰かが言うてましたけど、何かに酔ってはるんですか。王者の論理ってなんですか」
「実は、アレには自分も違和感ありました。あんれ、なんでこんな話しになっちゃったんだろうってね」
「大企業の名前にあぐらをかいてるとしか思えません。もし、僕たちが全員がひとつのスタートアップ企業やとして、この仕事を獲得せんと解散してしまうとしたら、現状のと同じ企画提案書を出しますかね。もっともっと真剣に、勝つための算段にこだわると思いませんか」
「んだ、そのとおりだと思います。私もそこはそう思ってて、本来うちらの持ってる”強み”が盛り込めてない気がします」
「僕が門扉を開くんで、そんとき、東北の意地みせてください」
「んだ、そういうことか」と、部長はつぶやきながらヒゲの総帥と会議室へ戻る。その話しを頷きながら静かに聞いているのは、本部からやってきた男ハッシー。
ヒゲの総帥は本プロジェクトには途中参加だったため、議事録でしかこれまでの経緯を知らないが、議事録の戦略上のメモとして『王者の論理』と書かれていたのには参った。
すでにこの頃には案件に係わる全てのデータを冷泉がAIを駆使して精査しており、課題点は恐ろしいほど浮き彫りになっていた。
ヒゲの総帥の手元にあるのは、産学官から提出された資料を元に自分なりに作成した未完で詰めの甘い企画書。そしてそれを踏まえて冷泉が魔改造したAIによる課題の洗い出しが記載された『冷泉文書』である。
さて、16世を攻略するために浮かんだ技法は『ほめ殺し』だ。権威主義に偏っている学者肌の老人に最も効果的なのは、賛美である。
「いやあ、さすがです!なんだか自分がいつも雲の上だと感じている人と、こうして直接お話しができるなんて、大阪から来た甲斐があります!感激ですよ、感激!」と、休憩を挟んでヒゲの総帥は妙なテンションになる。
方法はこうだ、16世が提案しそうな退屈なアイデアをヒゲの総帥が先んじて「世の中の悪例」として議論に挙げて、まずは16世が退屈な提案ができないよう封殺して無力化させる。現場から出てくる堅実で豪胆なアイデアが出てくると、「実はその程度のことはすでに16世が考えていたことなのだ。そうですよね、先生?」と総帥は16世に話しを振る。
16世は、柔和な顔で「そういうことです」と答える。見事に術中にハマったな、と会心の感触があった。ヒゲの総帥は部長に視線を向けて「今です!」と合図する。
部長はすかさず「そっか、さっすが先生です。そうでなくっちゃねえ、俺たちも負けられんです。俺らの一番の強みをそのまま出しゃええんでないの!みんな、やってやろうよ」と議論のリズムを立て直すことで、ヒゲの総帥の策が効いている間隙を見逃さず、議論の主導権を16世から奪取する。
この部長はキレ者だなと心底、感心した。
会議に参加している課長クラスの若い人たちも流れが変わったことを敏感に察知し、多少なりともオドオドしながらも「オーッ!」となり勢いを増す、そのうち、16世に封殺されていたはずのマルちゃんまでもが生き返ったように「私にも考えがあります」と。機能しだす光景を見て、ヒゲの総帥は全身に鳥肌が立った。ちゃんと燃えとるやんと。
めちゃくちゃ熱い、熱いのに何度も何度も上から水ぶっかけられて、それでもつぶれることなく歯を食いしばって仕事して、ここが勝負所と判断した際には、とんでもない熱量をぶつけてきた人間の迫力、仕事へのプライドに感動したのだ。ライターをカチっとしただけで、オーケストラは大爆発した。
希望していたように、午前中にある程度の会議のカタチはできあがった。
そして、16世の方でもヒゲの男によって自分が詰まれていたことに気付いたようで、笑いながらも目の奥は殺気立っていた。おそろし。崇められながら実は殺されていることにさっさと気が付くのは、この老人が本来であれば優秀だったであろう名残である。
お昼、食べきれないほどの牛タン定食だった。
牛タン屋に向かう途上、官公庁OBのマルちゃんがヒゲの総帥の近くに来て、周囲に誰も聞き耳を立てている人間がいないことを確認した上で、こっそりとにこやかに言う。
「やっぱり本部が寄越す人ですね。そのお、なんていうか、人心掌握の術いうもんですかね、他人同士の議論をコントロールする術なんて、私なんかは、生まれて初めて目にしたもんで」
この日、予定時間を大幅に過ぎても行われた会議によって、抽出された集合知は今できあがったばかりの虹のように光彩を放つも、少し時間をおけば霧散してしまいそうな脆さを備えていた。
次の課題は、集合知を整理整頓して具現化することだ。ただ、時間がない。