整形した冷泉 【EPISODE #11 / SEASON 1】
木曜会の当日、ChatGPT魔改造に励む冷泉よりLINEのグループメンバーに対して意味深な投稿がされる。
GW連休を目前に控え、北浜の街角にはいつも以上に静寂が漂っていた。人の往来が途絶え、ひっそりとした街並みは、いかにも祭の前夜のようである。ヒゲの総帥の会社において、この連休が明ければ否応なく激務の波が押し寄せる。なぜなら、日本全国の田植えがいよいよ始まるからだ。
だが、その忙しさをヒゲの総帥は苦としない。田植えという営みに直接触れ、自分たちの食卓へと至るものの道筋をこの目で確かめること。それにより、日本農業が抱える現在の課題を深く知ること。それらは、地に足をつける感覚を与え、彼にとって喜びであり、意味ある働きと映るのだ。
同時に、冷泉たちと進めているDX化の議論もまた興味深い。農業の持つ「知」と、ITやAIの「知」を融合させるべく、農林水産省が推進する施策の数々。『食料安全保障』という大義名分のもと、より効率的で高能率な農業を目指す動きは力強いが、その背後には数多の課題が横たわる。
農業従事者はIT業界のスマートさに憧れ、逆にIT業界の人間は農業にノスタルジアを感じる。だが、現状では真の融合はまだ遠く、各々が自身の役割に違和感を覚えつつも、完全に調和するには至っていない。ヒゲの総帥の目には、日本農業という名のオーケストラが、いまだ調律の合わぬ状態で演奏されているかのように映る。
外部のモデル――イスラエルやオランダの最先端農業――を参考にすることは大切だ。だが、それぞれの国の農業が持つ独自のリズムや「ピッチ」は、その土地特有の歴史や文化の中で生まれたものだ。
砂漠化した大地の中で奏でられるイスラエルの旋律、湿地を拓いたオランダの調べ。それらと同様に、日本農業が持つべき「ピッチ」は、外部の目を借りずとも見出されるべきものではないだろうか。
この国では、政治的なアジェンダが出世の鍵となるため、多くのことが言葉にされないまま伏せられている。特に日本農業に関する問題はなおさらだ。ヒゲの総帥は今のところ、その解決策や明確な道筋を持っていない。ただ、この静かな街角で、それを模索することだけは許されている。
そんなことを考えながら、ヒゲの総帥はコロマンサへ向かう。店に入ると、「顔面がぐちゃぐちゃだ」と宣言していた冷泉と、採用マーケティングを専門とする男がすでに来ていた。冷泉の顔が全然ぐちゃぐちゃになっていないので拍子抜けした総帥が理由を尋ねると、「あ、僕、目の下の涙袋を切除しました」とさらりと教えてくれた。
術後間もないせいだろうか、冷泉の瞳はやけに二重でキラキラしており、その不自然な美しさがどこか気味悪い。そんな冷泉を横目に、ヒゲの総帥は採用マーケティングの男に「実は人材を探している」と相談を持ちかける。今週、会社の人事採用で一波乱があったばかりの総帥にとって、採用のプロがセカンドオピニオンとして意見をくれることは心強い。
いつの間にか店に入っていたファラオは驚くべきことに、自作のアナログゲームを持参していた。デザインはガタガタ、質感もグズグズ、どこかで見たことがあるような既視感のあるカードゲームだったが、ファラオは得意げに「これには僕を含めて三人のアナログゲーム賢者の知恵が詰まっているんです」と胸を張る。
さらにファラオは、先日ラジオ番組にゲスト出演した際の話を披露する。「生放送で自分の好きな曲をかけることができたんです。それで、総帥の曲を流そうと考えたんですよ」と、嬉しいことを言ってくれる。確か数日前、ファラオから総帥宛てに唐突なメールが届いていたのだった。
この朴訥な質問は、ファラオの人柄そのものを映し出しているようだった。ヒゲの総帥は「『柵から逃げ出し亡命する軍馬の話』だよ」と答える。
「いや、そういうことだったのか。曲をかけてくれて光栄だよ」(総帥)
「それが、手元にCDがなかったのでできませんでした」(ファラオ)
「あ、そう」(総帥)
そのやりとりの間に、北浜の青山ビルでギャラリー「遊気Q」を営む銀髪の女がやってきた。噂の話ではあるが、嘉永6年にペリーが東インド艦隊の蒸気船を率いて浦賀沖に現れた際、「アレは黒船だ!」と最初に表現したのがこのギャラリーの女だと北浜界隈では囁かれている。
銀髪の女も涙袋が大きい。それを見た冷泉が、「涙袋を切開してみたらどうか」と尋ねるが、彼女は「今さらそんなの面倒くさい」と一蹴した。
しばらくして、冷泉と共に道場を主宰する格闘家の男や、映像ディレクターのタケちゃんが狭い階段をのぼって入店してくる。これを機に、ファラオと仲間たちが制作したゲームが店内で盛り上がりを見せることとなった。
無類のプロレス好きであるタケちゃんは、ゲームの流れに狂喜乱舞していた。その天性の才能だろうか、彼のジェスチャーは非常に巧みで、徒手空拳にもかかわらず、その動きから相手の姿が浮かび上がるようだったのには驚かされた。プロレス技のジェスチャーに没頭するタケちゃんを見て、ヒゲの総帥は次々と技のカードを彼に見せては、その表現を楽しんだ。
タケちゃんは額に汗を滲ませながら、与えられた課題に全力で取り組む。猫の額のように狭いコロマンサは、タケちゃんの動きに合わせてドンドンガタガタと賑やかな音を響かせていた。
③の『足4の字固め』のカードに注目した格闘家の男が、冷泉に話を振る。「これ、痛くなさそうに見えるでしょ?」と問いかけると、冷泉は反射的に「うん」と相槌を打つ。それを合図にしたかのように、格闘家の男は冷泉を寝そべらせ、技の解説を加えながら黒いIT参謀を固めていった。
「痛い!痛い!痛い!」と冷泉は絶叫し、太ももを必死に叩きながらもがく。この一連の光景があまりにも痛快で、店内にいた全員が笑い転げた。しかし、ギャラリーの女はこの騒動がアホらしく思えたのか、気づけば木曜会から姿を消していた。
ちなみに、そのギャラリー遊気Qでは『猫化:NEKOBAKE』という企画展が開催されている。約30名の作家や画家が手がけた「猫」をテーマにした作品が展示販売されているという。
その後、船場センタービルで食事を済ませてきたアマビエとスムージー屋を経営する女、さらには世界の果て会計事務所のガースー、芸能プロダクションのSSKMAYKらが木曜会に顔を揃えたことで、一層の賑わいを見せた。
ヒゲの総帥は来場者たちに問いかける。
―最も人気のあるスムージーに入れる食材は何か―
クイズの正解は、スムージー屋の女が最後に明かすという形式だ。
「マンゴー」「リンゴ」「キウイ」「バナナ」「モロヘイヤ」「オレンジ」――各々が思いつくままに答えていくが、いずれも不正解。
いよいよ冷泉に回答権が回る。冷泉は「ハッ」とした顔をして、しばし考えたのち、意を決したように答えを口にする。
「角のハイボール、ですか」
涙袋を失った代わりに天啓を得たのだろうか。この日の冷泉は絶好調であった。
その直後、「当てにいっていいですか、炭!チャコール」と満を持して正解を告げたのはアマビエだった。見事に正解。ヒゲの総帥が「どうしてわかったんだ」と問い詰めると、アマビエは「ここのお店のメニュー見たことあるもん」と、さらりと答える。なるほど、ズルい。
一方で、アイドル業界に新風を吹き込みたいと考えるSSKMAYKは、アイドルの新曲をヒゲの総帥に依頼するかどうか迷っている様子だ。もし依頼が実現するのであれば、呪術的な要素と金属の素地にガラス質の釉薬を溶かし込んだような音――音楽の七宝家(クロワゾニスト)と称されるような曲を作りたい、と総帥は夢想する。
木曜会を終え、ギターを背負って夜道を歩いていると、ヒゲの総帥はふと考える。何かひとつ大事なことを覚えるたびに、何かひとつ大事なことが失われていくような気がする。
――総帥の祖父が列車に轢かれて亡くなり、49日が過ぎたころのことだった。残された祖母は海辺近くの田んぼで業火の前に立っていた。祖父の服、仕事道具、彼にまつわるあらゆるものに火をつけ、存在を焼き尽くしていたのだ。
何をしているのか聞くのが恐ろしく、ただその光景を見つめていた。
人間がこんなにも哀しいのに、海はあまりに碧かった5月。