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冷泉誕生 〖BEFORE 木曜会 #8〗
ヒゲの総帥が香川県で住んでいるとき、たこ焼きというのはなんら魅力を刺激するものではなかった。ところが、大阪に出てきて南森町を探検がてらブラブラしていたとき、ズボンのポケットのなかの小銭で初めて大阪のたこ焼きを食べ、感動した。
こりゃ、とんでもない美味しいものだ、こんなものが世の中にあるのかと大袈裟な表現ではなく腰が抜けそうになった。当時の鮮烈な味の記憶は30年近くたった今でも保存されており、ヒゲはあの日からずっとたこ焼きが好きである。
この日の夜、随分と早い時間にもかかわらず、ハイタッチの男がコロマンサでハイボールをチェイサー代わりにし、ウイスキーをストレートであおっている。
その姿を見ながら、ヒゲの総帥は急に不安になった。
ハイタッチの男がハイタッチを求めてこなければ、このオリジナリティ溢れまくってはみ出ている男を誰かに紹介するとき、一体何と紹介すればいいのだろうか。惜しいことに、彼の苗字はその存在感と違って、とてもありふれているのだ。
「苗字を変えませんか?」(ヒゲ)
「僕の苗字のことを言うてるんですか?」(ハイタッチ)
「はい、もっと変わった苗字、なんというか、誰もが納得できる名前」(ヒゲ)
「・・・例えば、どんなんですか?」(ハイタッチ)
「そうですね・・・、冷泉とか」(ヒゲ)
「レイゼイ・・・、どんな字、書くんですか」(ハイタッチ)
「冷たいに泉と書きます、冷泉とか、どうですか」(ヒゲ)
掘り下げても何らの発展もしようもない会話だったので、お互いに苦笑してその場は終わり、せっかく冷泉が来ているのだからと、ディエゴを呼ぶことにした。
ディエゴは起業家になるため昼夜問わずに、その仕込みに奔走する男。先日、コロマンサで開催したアイリッシュ音楽の演奏会のときなど、客の立場ながら店を手伝ってくれたサーフィン好きの好青年だ。演奏中はずっと店の扉のところで立っており、イングランドの近衛兵のようでなんとも心強かった。
冷泉はいろんな会社に出入りする「ITの参謀」である。決して表舞台には姿を見せぬ男であり、自分は企業の「黒子(くろこ)」であるという。冷泉の名刺の裏にも「黒子」と書かれていたが、ヒゲは最初それを見たとき「ホクロ」と読んでしまった。
企業のホクロでは、まったく意味がわからない。
酸いも甘いも知り尽くし、顧客すら殴り飛ばしてきた冷泉に向けて、ディエゴが自身の起業プランニングをプレゼンすることになったが、冷泉からの反応は散々であった。雑巾のようになったディエゴが冷泉に向かって「今日は聞いていただき、ありがとうございました!」と謝意を述べる姿は、見ていて気持ちのいいものだった。
「そしたら、殴り合いしよや」と冷泉は低音を響かせて笑う。
冷泉が笑う。