先生の品格 【EPISODE #05 / SEASON 1】
暦の上でとっくに春は来ているのだが、どうにも寒い。今ちょうど西日本側を中心に桜が咲く時期だからこれを「寒の戻り」というのだろう。実にタフな一週間であった、新しいプロジェクトが幾つも立ち上がるのは光栄なことではあるが、どこまで自分が対応していけるのかについて明確な自信はない。今日の自分の仕事が明日の自分へ繋がるのだ、とだけ唱えている。
19時頃、木曜会が開催されているコロマンサへ向かう。冷泉を中心に、すでに数名が店内で杯を傾けていた。「今日は生成AIについて語る夜になるだろう」という冷泉の事前予報は見事に的中した。集まったメンバーが、まさにその話題を求めている顔ぶれだったのだ。
一方、その熱気を横目に、バイオリニストのアウシュ君は玄関前の席でひたすらスパゲティを食べていた。その様子は、明日が世界の終わりであるかのように、スパゲティを胃の中にぎゅうぎゅうと詰め込んでいるようだ。
ヒゲの総帥は、その光景をモノクロで撮影したら素晴らしい被写体になるだろうと、勝手に妄想を膨らませていた。
店内の勢力図は、次第に3つのグループへと分かれ始めていた。
冷泉が企画したのだから、グループ分けの際に冷泉は「生成AIグループ」に含まれるべきではないか、という声もあるだろう。実際、ヒゲの総帥も当初はそう考えていた。だが、それはある瞬間に覆された。酩酊した冷泉が布袋寅泰の『スリル』を熱唱している姿を見た時のことだ。
Baby Baby Baby Baby Baby Baby Baby
俺のすべては お前のものさ
Baby Baby Baby Baby Baby Baby Baby
夢のかなたへ 連れ去ってくれ ♪
熱唱する冷泉の声の狭間と狭間で、AI生成グループの熱量の高い会話が聞こえてきて、冷泉の歌声が彼らにとって非常に障壁になっていることがわかったのだ。
ああ、冷泉、邪魔なんや。
この瞬間、ああ、冷泉はどこにも属さない独立勢力だったのかと確信した。自分主催なのに、どこにも属さずオルガン横の席に1人でぽつんと座っている冷泉はライオンみたく格好良かった。
一方、ファラオは今日も新しいゲームを持参していた。しかし、そのゲームは仕掛けだけが大袈裟で中身が薄く、すぐに飽きられてしまった。ヒゲの総帥は、木曜会の参加者たちに現在進行形で押し付けられている面倒な仕事について語り始める。
総帥は逃げ回っていたが、気が付けば主担当になってしまっていた。どうにかして避けたかったが、運命からは逃れられなかったのだ。何よりも厄介なのは、例の老人先生である。
「大きなスクリーンを用意しろ」「輝度の優れたプロジェクターを手配しろ」といった要求は序の口だ。問題は、その執拗なまでの社会的ステータスへのこだわりと、その場におけるヒエラルキーへの異常な執着心である。その露骨さには、ヒゲの総帥も思わずおぞましさを覚えるほどだった。
こうした人間には、ある種の共通点がある。それは、他者を貶めることで自身を大きく見せようとする支配的なレトリックを使うことだ。その言葉はしばしば周囲を傷つけるが、本人にはそれを恥じる気配すらない。
ヒゲの総帥は考えた。出生数が多かった時代に生まれた人間は、同世代の競争が激しい中で生き抜いてきた。そのため、何らかの「武器」を持つことが生存戦略において欠かせなかったのだろう。その「武器」として、他人すら利用する冷徹さを身につけたのかもしれない。そして、それに伴う良心の呵責が芽生えにくかったのではないか、と。
先生:「スクリーン良くないね、どこのスクリーンを使ってるのか」
総帥:「メーカーは知りませんが、問題ないのではと考えます」
先生:「トモエガワ製紙所のスクリーンにしなさいよ、良品だよ」
総帥:「日の出製麺所のスクリーンですか、初耳ですが用意します」
先生:「トモエガワ製紙所だよ!キミはプロなのに聞いたことないのか」
この「プロなのに」という言葉には、完全に責任転嫁の意図が込められている。スクリーンを交換するとなれば新たな費用がかかるが、その予算をどうするつもりなのかと尋ねると、老先生は逆ギレする。
先生:「そんなことはアンタたちプロが考えろよ!」
結論を言わず、丸投げするその態度に、制作スタッフ一同は静かに失笑する。ちなみに、日の出製麺所は香川県にあるうどん屋で、スクリーンとは何の関係もない。
老先生のご乱心は、それだけでは終わらなかった。
研修リハーサル中、突如として見たこともない女性が会議室に現れる。40代くらいの細身の女性で、先生とは懇意らしい雰囲気だ。話を聞けば、この女性は東京から呼ばれた本番の司会進行役であるという。
先生:「マユちゃん、アレやってみてよ」
女性:「ええ、ここでですか?」
先生:「皆のためになるんだから、やりゃあいいんだよ」
女性:「では・・・」
2人のやり取りが何を意味するのか、我々には全くわからない。女性はマイクを手に取り、緩やかだがよく通る声で説明を始めた。
女性:「先生からのご要望を受けまして、急遽ではありますが、これよりマインドセラピーの講習をさせていただきます。皆さん、肩幅まで足を広げて静かに目を閉じてください。ゆっくりと息を鼻から吸い込み、口から吐いてください。はい、鼻から吐いてしまっても構いませんよ。それでは、これまであなたが一番気持ちよかったことを思い出してください……」
・・・これは何ですか。
総帥は、笑いを堪えきれず会場の外へ飛び出し、ゲラゲラと笑った。その後、笑い疲れた彼の心にはアホらしさがじわじわと湧き上がり、さらに数分後には怒りに変わっていった。
「まだこんな狂気じみた寄生虫が駆除されずに残っているのか……」
ヒゲの総帥は深くガッカリした。自然、永平寺の宮崎禅師の言葉が頭をよぎった。
「それは――。良くないですね」と大学生起業家のヤスが言う。その一言に、ヒゲの総帥の話を聞いていたコロマンサの一同が頷き、納得の表情を浮かべた。その後、冷泉が冷泉らしい解決法を提案してくれたが、ここに書けるような内容ではないため、詳細は割愛する。
最も注意すべき点は、この老人を満足させるための制作をしてはいけないということだ。研修の本質的な目標は、研修を受ける者にとって有意義であることにある。それが老人の乱心によって焦点を逸らされてしまえば、目的は失われ、本末転倒となる。
この重要な教訓を、ヒゲの総帥は長渕剛から教えてもらった。
AIやChatGPTに求めるのは、こうした老人先生のような人の話し相手になってあげて欲しいということだ。ずーっと会話を続けてあげられるようになって欲しい。それが苦にならないことこそ、生成AIの強みだと感じる。
とにもかくにも木曜会は盛況であった。一つの事象に対して多角的な視点があり、それぞれに意見をくれる場があるのはとてもありがたい。
ヒゲの総帥は老先生の研修をホントに大企業の皆が望んでいるのかわからなくなった。なので、木曜会の前、この企業の創業者(故人)の家を訪ねてみた。閑静な住宅街の中にあり今では小学校になっている。小学校の周りを歩きながら、創業者ならばこの状況をどう考えるだろうと思考を辿ることにした。
「創業者の屋敷は大豪邸だと何かの記事で読んだが、そんな風には感じられなかった。周囲と調和するような佇まいがあり、そこには人間本来の品の良さを感じた」とヒゲの総帥は改めて自分が歩いた道をGoogleマップで確認する。そして、ある真実に気づく。
小学校を間違えていたのだ。