失えば、前進せよ 【EPISODE #03 / SEASON 1】
街を歩くと、あちこちで梅の花が咲いている。梅にもさまざまな種類があるのだから、それぞれに異なる考えがあるのだろう。すべての梅が道真公のためだけに香りを放っているわけでもあるまい――そんなことを思いながら迎えた3月の木曜会。
普段であれば18時半にはコロマンサに着くようにしているヒゲの総帥だが、この日は考えごとに没頭していたため、店に着くのが遅くなった。すでに冷泉、ファラオ、そしてシェルパさんが来ていた。
冷泉が開口一番、「アウシュさん、さっきまで待ってはりましたよ」と教えてくれる。
アウシュさんとは、アイルランド民謡を演奏するバイオリニストだ。コロマンサでよくセッション演奏を披露してくれる存在でもある。映画『イニシェリン島の妖精』に登場するバイオリニストのように寡黙だが、その情熱を測ろうとすれば、異常値が出るのではないかと総帥は感じる。
アウシュさんは、熱い男だ。ただし、その熱さは外面に氷漬けされているようにも見える。調子に乗ってイカロスのような気分で彼に近づけば、その翼は簡単に溶け落ちてしまうことだろう。
ヒゲの総帥が店に入ったすぐ後、ガラス戸を開けて入ってきたのは広告デザイナーの浦部君だった。彼はさらに層を重ねた氷――まるで複層的永久凍土のような感性を持つ男である。時折カラカラと乾いた笑い声を漏らすものの、腹の底から笑ったことが一度でもあるのだろうか、とヒゲの総帥は思う。
浦部君とは木曜会をきっかけに、ヒゲの総帥が所属する会社の仕事をお願いすることとなり、3月に入った早々、来社してもらうことが決まった。
浦部君は何も知らされないまま弊社にやって来た。そんな彼を待ち構えていたのは、予想だにしなかった会社の重役連中がズラリと並ぶ光景だった。
「先に詳細を聞いてなくてよかったですわ。聞いてたら、面倒くさくなって断ってたかもしれません」と浦部君は苦笑する。
しかしながら、ヒゲの総帥は見たい。この誰からも男前と呼ばれる浦部君が、農場のほこりの中で子供のように転げ回り、ワーワー言いながら笑う姿を。
一方、シェルパさんは京都山科までの遠路帰りがあるため、コロマンサを後にしようとしていた。ヒゲの総帥はギターを手に取り、『サンジェルマンの殉教』という曲を弾き始める。それを聞き終えたシェルパさんは、「よし、頑張ろう」を3回唱えた。2回は声に出して、最後の1回は心の中で唱えたのだろう。
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先月、ヒゲの総帥は写真を撮影するために香川へ帰省した。妹がいた。高校1年生の2月に病で亡くなった妹だ。そして今、ヒゲの総帥の娘は高校1年生となり、妹の年齢を超えた。
娘に、自分たちの家族の誰かがかつて必死に生きていたこと、そこに確かに存在していたことを感じてもらいたかった。自身の母親には、孫娘の成長という奇跡を見せたかった。
ヒゲの総帥は、自分もこの年齢の娘を持つ親となり、妹を失った母の気持ちがわかるようになった。そして、家族に降りかかった想像を絶する不幸の重みを、あらためて実感することになった。
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そんなことを思い出しながら弾いていた。すると途中でギターの弦が切れてしまった――それがどうした。
「総帥、弦が切れても関係ないんですね」と冷泉が興味深げに尋ねる。
ヒゲの総帥は、こう答えた。「曲の冒頭で切れたのなら張り直すけど、曲の後半ならそのまま弾くよ。欠けていくこと、失われていくこと、忘れていくこと――それこそが生きている証拠だから」
冷泉が言う。「総帥、この前、大丈夫でしたか?」
木曜会より遡ること2日、つまり火曜日のこと。冷泉とヒゲの総帥は連れ立って広島風お好み焼きを食べに行った。時折、広島風お好み焼きが無性に食べたくなる日があり、そんな日には天満の『ひろ』に足を運ぶ。その日も、そうだった。
食事の後、新規開拓と称して近場のカラオケスナックに寄り、大いに盛り上がった。やがて冷泉と酩酊状態の総帥は別れた。その別れ際、冷泉はヒゲの男の様子がいつもと違うと感じ、「大丈夫ですか」と2度、LINEを送ってきた。
その頃、冷泉と別れたヒゲの総帥は――。
書けません
という教訓になる話をしていると、不思議な女とまほろばおじさんがコロマンサにやって来た。まほろばおじさんはかつて京都の大手下着メーカーでデザイナーをしていたこともあり、彼を中心に、80~90年代の行き過ぎたテレビCMについて振り返りがなされる。
『だっだーん、ぼよよんぼよよん』は狂ってましたとカラカラ笑う浦部君
『かっぱっぱー、るんぱっぱー』も今では問題視されるだろうと不思議な女
『ロート、ロート、ロート』の強迫観念と白い鳩も狂気の沙汰とヒゲの総帥。
そんな中、はじめてコロマンサを訪れたという保険のおじさんとお姉さんがやって来た。「近くに住んでいるので前から気になっていたんですが、今日は勇気を振り絞って入ってきました。あの階段を上がった人間しか経験できない光景が、確かにありますね」と、2人はご機嫌の様子だ。
酔って寝込んでしまったまほろばおじさんはそのまま寝かせておき、それ以外のメンバーで「ようこそ木曜会へ」と乾杯を済ませる。その後、惰性の夜は深夜まで続いた。冷泉がSDGsバッジを襟元に付けたら、どんな感じになるのだろうか。