「こんにちは」
調子の悪い時期は、ある程度、定期的にやってくる。
そして誰かに言ってもらう、「こんにちは」。
丁度いい、調子の良さは、本当に稀だと思う。
昨日まで当たり前に流したり、受け入れたりできていたことが、今日には、イライラして、耐えられないようなことになってしまう。
なんとなくだけれど、何でもできるような、前向きな気分で、やりたいことをどんどんやって、色んなことを引き受けていたのに、自分には出来るわけない、全部やめてしまいたいと自暴自棄になってしまう。
鼻歌でルンルンと歌えていた歌で、急に涙がこみ上げてくる。
躁鬱(そううつ)というらしい。
(以下、私の個人的な経験を書きますが、勉強していないので、専門的なご指摘や、経験則によるアドバイス、ご意見等いただけると嬉しいです。)
躁が上がっている時で、鬱が下がっている時。
それを繰り返すのが、躁鬱。
昔は、自覚がなくて、そこそこ困ったけれど、だいぶ付き合い方が分かってきたような気がする。
付き合い方と言っているので、躁とも鬱とも縁は切れていません。
まず、躁と鬱をなんとなくではなく、「そこにいたのかっ!」と思えるようになったのは、紙に日記を書き始めたからだと思う。
日記は毎日じゃなくて、気が向いたときにまとめてテキトーに書いてきた。
躁でも鬱でも、動機は違えど、書きたいと思えたのが私には良かった。
躁のときの日記は、毎日が楽しそうで、やる気がみなぎっていて、書いているときも次々と頭の中に書きたいことが駆け巡ってくる。
鬱のときの日記は、ぐじゃぐじゃして蠢(うごめ)いている感情をどうにか言葉にして、落ち着けようと、この世の終わりかのような喧噪が広がる。
日記を続ける中で、「昨日の今日で、ここまで感情が入れ替わり、一定期間続いたかと思うと、また一方に戻るのか」とだんだん分かるようになった。
正反対の2人、“躁さん”と“鬱さん”の存在に気が付くと、付き合いが少し楽になったが、いざ、“躁さん”がやって来ると、いざ、“鬱さん”がやって来ると飲み込まれてしまっていた。
そこから、もう一段階、付き合いが楽になる方法を見つけた。
まず、“躁さん”と“鬱さん”は悪い奴じゃなくて、自分の制御できないところから、ふつふつと湧き上がる湧き水のようなものだと理解すること。
2人のどちらかがやって来たら、「こんにちは」とあいさつすること。
「こんにちは」と言っているのが誰なのか自分でも不確かだが、“躁さん”でも“鬱さん”でもない別の誰かなんだと思う。
そうすると、「こんにちは」と言った誰かのおかげで、私は例の2人に飲み込まれずに済むのだ。
「またやってきたんだね。君は君で、それに悪い奴じゃないから、仲良くやっていこうと思っているんだ。優しくしてね。」
“躁さん”と“鬱さん”の2人に会ったことがない人や、2人の存在に気が付いていない人が、この文章を読んだら、頭おかしいんじゃないかと思われそうだ。
でも、こういう自分の感情を、少し離れた所から見ることをメタ認知とか言うらしいよ。
かっこいいね、“メタ認知”。
メタモンと同じ、「メタ」が入っているなんて嬉しいね。
ほら!私は“躁さん”と“鬱さん”を、“メタ認知”しているんだ。
わっはっは。
(分かってください。今、とても強がっています。)
躁鬱っぽいなと思う人も、躁鬱とは無縁だという人も、自分の中身から生まれる好ましくない感情に優しく「こんにちは」と言ってみてもらいたい。
怒り、悲しみ、消えたい、消したい、責めたい、、、
「また来ましたか、こんにちは。」
ばからしいかもしれないけど。
そして、私に向かって、心の中でもいいから、結果報告を。
どうなったか。
顔を合わせる人に頼めないもので。
“躁さん”と“鬱さん”に「こんにちは」と言うとどうなりますか、教えてください、なんて。言えないから。
ここには、うん、noteには、聞いてくれる人がいるのかもなあ、なんて思っちゃって。
ねえねえ、言ってみてよ!
「こんにちは」