一瞬で満足?
楽しさは一瞬で良いのだろうか?
「今が楽しければ、それでいい」
「今を楽しまないと」
よく言う。よく聞く。
もう、ことわざみたいな扱いで。
「苦しいだけならやめなさい。一瞬でも楽しいと思うなら続けなさい。」
中学生のとき、部活に行きたくない時に、たまたま、そんなような言葉を見つけた。
部活動をモチーフとした文房具(メモ帳だったかな。)に添えられた名言だったと思う。
よく見るやつで、努力や涙を連想させるキラキラしたイラスト・言葉で彩られた文房具。
中学生の私は、そんな文房具を飾る言葉に、ひっかかりを感じながらも、なんとなーく納得していた。
信じるのに都合の良い言葉だった。
「一瞬でも楽しいと思うなら続けなさい」
はい!では、部活に行きます!
都合よく信じたわりに、ひっかかりは消えなかった。分からなかった。
苦しいだけじゃなくてもさ、苦しいことの方が多いんなら、やめた方がよくないか。
「楽しい」が一瞬なんて嫌じゃない??
ひっかかっていたからか、今になっても忘ずにいた言葉。
最近、考え事をしていて、ひっかかりが緩んだ気がした。
“生きているうちに、やりたいこと”
を考えていると
「あ。いつか私、死ぬんだ」
という気持ちが、後から追いかけてきた。
私は死ぬのか。怖いなあ。
なんて思って、
もう死ぬと分かったら何を思い出すだろう。と想像する。
やり残したことへの後悔だろうか。
愛した人の笑顔だろうか。
平穏な日々のことだろうか。
できるなら、
「わはは、楽しかった」みたいなことを思い出したいなあ。
いつ死ぬかは分からないけれど、それなりに歳をとって、もう先が長くないと知ったなら、たくさんのことは思い出せないだろう。
そのとき、長く苦しい道のりを思い出すことができなくても、きっと「わはは、楽しかった」みたいな一瞬の楽しさなら思い出せるんじゃないかな。
そう思うと、
「苦しいだけならやめなさい。一瞬でも楽しいと思うなら続けなさい。」
の理論も分かる気がする。
「苦しい」を美化するのは違う(ずっと楽しい方がいい)と思うけれど、「一瞬の楽しい」を求めてもいいじゃないか。
死ぬ間際に思い出せるのなんて、所詮、一瞬。
「わはは、楽しかった」でいい。
「楽しい」は一瞬で満足?