お前はそういうやつなんよ
当時、私を失望させた言葉。
“お前はそういうやつなんよ”
今は、その言葉の続きを見つけられ、前を向けるようになった。
その言葉を言われたのは中学生の時だった。
その年の遠足は、近くの河原でバーベキューだった。
河原の石を組んで、網を乗せる土台を作った。
班の友だちと持ち寄った肉や、野菜、ちょっと風変わりなマシュマロ焼き。
おこげを取り合った飯ごう炊飯。
あー、楽しかった。
で終わるはずだった。私はやらかした。
組み上げた石を、元あったような自然な感じに戻しましょう。
そう先生から言われて、真面目な私は黙々と石を手にとった。
少し大きめな石を両手でつかむ。
手が勝手に抗った。
一瞬、わけが分からなかった。
そして石に触れた掌の皮膚に、引き剥がされるような痛みが走る。
焼けた石をつかんでしまっていた。
先生方の迅速な対応により、スムーズに皮膚科へ搬送された。
見事な火傷。
両方の掌の皮が、べろんと剥がれてしまった。
そして、次の日、部活の顧問から呼び出された。
石をつかんだのは、私の不注意だったこと。
私は、大会を控えた大切な時期に火傷を負ったんだということ。
その辺の話の記憶は曖昧だ。
でも、話の最後に言われた一言は忘れられていない。
“お前はそういうやつなんよ”
「これからの人生もこんなことが繰り返されていくのか。私は“そういうやつ”だから。」と思っていると、掌が余計にズキズキ痛むような気がした。
そう思った反面、“そういうやつ”で終わりたくないとも思った。
自分のせいで、失敗し、人に迷惑をかけ、苦労する。
そんなの、もうこりごりだ。
しかし、その後も私は、顧問が言った通り“そういうやつ”だった。
火傷の一年後には、鎖骨を骨折した。
捻挫を重ね、腫れと痛みをとるために注射を打ってもらうようになった。
高校生では足首を手術することになった。
大学生では、再び足首を手術することになり、
その後、アキレス腱を断裂し、手術。
おかげで、成人式には出席できなかった。
“お前はそういうやつなんよ”
あの言葉が何度となく思い出された。
そのうちに、自分で続きを言い足すようになった。
“お前はそういうやつなんよ”
“だから、みんなと違う道を通ることができるんだよ”
わざと人に迷惑をかけるのは、よくないと思うし、自分が注意すれば失敗せずに済むなら、そうするべきだと思う。
だけれど、そうは思っていても、私は人に迷惑をかけ、失敗し、苦労することがよくある。
“そういうやつ”だからね。
今は心から“そういうやつ”でよかったと思っている。
(たまに、うまくやっていける人たちを羨ましく思うことはあるけど、悔しいから内緒だ。)
私は山道を越え、遠回りしながら、その分、たっぷり人の優しさを感じてこれたし、傷つき悲しむ中で、それぞれのヒトの痛みを、ヒトは理解することができないことを理解できたし、苦労や不幸と思われることを闇雲に恨まなくなった、と思っている。
平坦な所からでは見えにくかったものが、山の上から、谷の底からなら、よく見える。
“お前はそういうやつなんよ”
傷のように刻まれた言葉だった。
今は笑って傷跡を見せられる。
わたしは“そういうやつ”。
“だから、みんなと違う道を通ることができるんだよ”