横谷宣ギャラリートークまとめ 2024/05/25@ギャラリーバウハウス
さる5月25日にギャラリーバウハウスで行われた横谷宣と、わたしのギャラリートークには、定員いっぱいの50人近い方たちが参加。半数ほどが今回、初めて横谷作品にふれたという方たちだった。
わたしが横谷さんと初めて会ったのは1994年のカイロだった。安宿に泊まっていた横谷さんは、肌は真っ黒に日焼けして、元の色がわからないくらいくすんだTシャツを着ていた。
写真を撮っているといって、ひとり何日も砂漠で過ごしたり、ピラミッドを訪ね歩いたりしていた。ただし、持っているカメラは古ぼけたニコンFE 一台だけ。それに自分でつくったレンズをつけている。それでどんな写真が撮れるのか想像もつかなかった。そのあたりのことからトークは始まったーー。
改造レンズ
自分でつくったレンズというより改造レンズです。中古のレンズを何本も分解して組み合わせたり、ダイソーの虫眼鏡をくっつけたり、いろいろ試しました。
はっきり映るレンズがいいと思わなかった。もっとぼわっとした感じにしたい。でも既成のソフトフォーカスレンズだと全体的にふわっとしてしまう。そうじゃなくて、黒はきゅっとしまる感じが欲しかったんです。
旅行するときはニコンのFEというカメラに、そのレンズ一本だけでした。90年から94年まではパリに住んでいたのですが、フィルムを持って歩くのはたいへんなので節約しながら撮っていました。一箇所で1枚か2枚しか撮らない。1年で36枚撮りのフィルム40本くらいです。
世界のあちこちを旅しながら撮影していましたが、自分の中には撮影する前から、なにかぼわっとしているけど具体的な絵がある。具体的といっても、それは構図や光の感じ、あるいは線や丸や四角のような模様みたいな形だったりします。
散歩したり旅行したりしながら、そういう光や模様をさがします。実際の写真のディテールはぜんぜんちがうんですが、光だったり、抽象的な平面構成のようなものは、すでに頭の中にあります。
エジプトの砂漠でも撮影しました。内陸の砂漠の真ん中でバスを降りて、もってきた水やパンを砂に埋め、昼は岩陰でじっとしている。夕暮れのきれいな光のときに撮影して、夜は砂に埋めた水やパンを掘り出して食事して、夜は砂漠の真ん中で寝ます。岩陰は夜はサソリがでるので危ないんです。
ただ改造レンズを使うと、レンズの癖がつよいので、イメージに合ったプリントをつくるために、現像の仕方も印画紙も工夫しなくてはならない。調色には尿素をつかいます。古い文献にある方法で、いろんな色が出せます。
水酸化ナトリウムを使ってアルカリが強くなると黄色寄りになり、弱いと青紫や赤紫になります。それをできるだけ黄色寄りにする。銀塩のもとの銀の色は黒なんですけど、青寄りの黒を出しておいて、その一部を脱色して、そこに黄色をのせると、微妙に混ざったところが緑よりにころがる。すると白黒なのに、よく見ると3色くらい見える。階調に深さが出るんですって、こんな話して大丈夫ですか?
手作り印画紙
印画紙ですが、1回目の個展「黙想録」のときはケントメアというメーカーが水彩紙に乳剤をぬった印画紙をつくっていて、それを使いました。ところが2回目の個展「森話」が終わったら、その印画紙が生産終了になっていました。注文を受け付けた分、自分で印画紙をつくるしかなくなりました。
市販の水彩紙を片っ端から取り寄せて、紙目を元のプリントと合わせるためにスポンジで濡らして、そこに金網をあてて版画のプレス機を通してエンボス加工したり、均一に乳剤を塗るための道具も工夫しました。
普通の印画紙でも乾くと色が濃くなるのですが、手作り印画紙はもっとゆるいので、黒が締まるまでもっと時間がかかります。半年くらい立たないと、善し悪しがわからない。結果的に注文から納品まで4年かかってしまいました。
同じ写真をたくさんプリントするのはたいへんなんです。手作り印画紙はそれぞればらつきがあって、満足いく同じクオリティのプリントをつくるのがむずかしい。同じようにやっても失敗するものがたくさん出ます。また硝酸銀の価格が上がったこともあり、いままでのやり方を続けるのは時間的にも金銭的にももうできない。今回の個展が、従来の手法を用いた最後の展示です。写真集を出してもいいかなと思ったのも、そのためです。
オブジェとしての写真集
写真集は、はじめは小さなポケット聖書みたいなものをイメージしていました。実際には、もっと大きな本になりましたが、私としては本そのものをオブジェとしてつくりたいと考えていました。読めればいいとか、見られればいいというのではなく、「モノ」としていいなと思えるものを追求したい。
「モノ」はすべてそうじゃないといけない、と私は考えています。家具にしても、服にしても、機能性をクリアしていて、いらないものはあってはならない。使う部屋や空間に合っていること。質感、風合い、素材感、形、大きさがいいこと。でも、そういうものって売っていないんです。だから面倒なんですけど自分で作るしかない。それで子どものときから、いろんなものをつくってきました。
いまは5年前から自分の家をつくっています。2階建で1階に暗室をつくりました。ただ、さっきもいったように従来の銀塩写真ではなく、いまはカーボンプリントを研究中です。カーボンプリントはゼラチンと顔料だけでできます。カーボンというのは炭素、つまり炭です。書道用の墨でもいい。ゼラチンと顔料というのは絵画の手法と同じです。感光させる薬品も安い。それでいながらプラチナプリントより保存性が高い。100年以上前からある手法です。
カーボンプリント
カーボンプリントというと反転させてプリントする方法が一般的なんですが、私のやっているのはダイレクトカーボンというやつです。反転せず一回だけ乳剤を塗って直接焼き付けて、水で現像して終わり。プロセスが銀塩よりシンプルなんで、紫外線にしか感光しない。
ふつうは大判のネガをつくって印画紙とネガを合わせて光を当てるというやりかたをするんですが、私は35ミリから焼きたい。そこで引き伸ばし機に強力な紫外線LEDをつけて感光させる方法を取りました。買った当時は世界最強の紫外線LEDでした。それを自分で作った基盤にはんだ付けする。熱が出るので、パソコンの水冷装置に基盤を直接つけました。
熱は通しても電気は通さない絶縁層を作り、その水冷式のUVLEDを引き伸ばし機につっこむ。水冷装置は10リットルのポリタンクに凍らせたペットボトルを突っ込むというやりかたを考案しまして・・・ってこんな話、大丈夫ですか?
ダイレクトカーボンで大事なのは印画紙に乳剤を薄く均一に塗ることなんです。そのための装置も岡山に住んでいたときにつくりました。細い糸をまいたステンレス棒に乳剤を含ませ、その下に置いた印画紙がスピードコントロールモーターで均一に移動するという装置で、10ミクロンの厚さで塗れます。これがあれば銀塩の印画紙やフイルムも作ることができます。
問題は階調を出すために重クロム酸カリ、いわゆる六価クロムのような危険な薬品をつかうのですが、世界の流れとして、これらが入手しにくくなっている。ヨーロッパでは使うことができません。日本では使うことはできるのですが、個人ではなかなか売ってもらえない。ヨーロッパでは代替薬があるのですが、感度が落ちるんです。階調を出すのに、代替薬だとうまくいかない。それでも将来的には代替薬を使っていくしかないと思うのですが、いまはまだ使いこなせない。
じつは、この5月に30年ぶりにパリに行きました。昔暮らしていたところを訪ねたりしたのですが、そこそこ撮影もしてきました。ただ、いまいったような薬品の問題で印画紙をどうするかがまだ決まっていません。印画紙と現像の仕方が決まらないと現像ができないので、これからもテストをつづけます。
なぜ写真だったのか?
写真を選んだのはなりゆきです。家にカメラはなかったのですが、小4のとき、おもちゃ屋でおもちゃのカメラが売っていました。まさにおもちゃだったんですが、店のおばちゃんが、これでもちゃんと写ると教えてくれて興味を持ちました。それでお年玉で安いカメラを買い、中学のときに現像の仕方を教えてもらいました。
それからずっと写真を撮っていたんですが、大学の2年生くらいのときに、この先、どうやって生きていくか、職業を決めなくてはならなかった。私は人付き合いが下手なんで会社員はむりだし、商売人も無理でした。その代わり、なにか一つのことをずっとやりつづけようと考えました。そうなると、できるのは写真しかない。さすがに一つのことを10年やりつづけていたら、食えるようになるだろうとも思ったのですが甘かったですね。いまだに写真では食えていません。
卒業して社会に出て、プロとしてスタジオに入って写真の仕事をはじめたわけですが、そこで多くの人が感じると思うのですが、仕事としてなにを撮るかと、作品としてなにを撮るかという問題にぶつかりました。私はこんな感じの写真を撮りたいというのは当時すでにありました。ただ、それを作品にしても食えないのもわかっていました。
広告の世界というのはファッションやタレントの撮影が多いんですが、私はファッションもタレントもまったく興味がない。一方、当時、自分が作品として撮っていた写真は、今ここに展示してあるものに比べると、もっとぼわーとしていて、わけがわからないものでした。
写真家・横谷宣の誕生
ただ、当時は食えるようになるには、どんな写真を撮らなきゃいけないのかと考えていました。じつは1990年にパリに行ったのは、それを探すためというのもありました。20代の終わり頃でした。
パリでは、いろんな写真に出会いました。当時、パリのギャラリーで人気だったのがサルガドでした。展示を見て、これはすごいと思って、私も南米の炭鉱にでかけたり、ソマリアの難民キャンプへいったりしました。ほかにもいろんなことをやって、そこそこいい写真も撮れました。でも、いい写真であっても、これは自分の作品ではないと思ったんです。
パリには4年いたんですが、結局、そのときに撮った写真は全部捨てました。自分の作品として人に見せるようなものではない。その意味では90年代のパリは、私にとっては黒歴史なんです。
パリ滞在の最後の最後にカメラマンとして食っていこうと考えるのはやめようと決めました。今回展示した作品のうち何枚かはパリに行く前に撮ったものがあります。それは自分の作品といえるんですが、パリにいたときに撮ったものはそうではない。だったら、仕事にはならなくても、自分の作品の続きを撮っていこうと思いました。
パリを引き上げてからは、日本でアルバイトして金をためては、中国へ出かけたり、インドへ出かけたり、という旅する生活を何年も続けました。そうやってここに展示されている写真を撮ったのです。20代はじめの頃に撮っていた写真に比べると、わかりやすい写真だと思います。でも、いま思い返してみると、あの頃いいなと思っていたイメージは、いまでもいいと思うので、これからは20代の初め頃に探っていた、もっとぼわーとして、なんだかわからないような作品をつくっていこうと思っています。
「あまり見ないでほしい・・・」
若いときは「100年経っても変わらない作品を作りたい」と思っていました。でも、自分も変わったし、世間も変わります。2009年に最初の展覧会をやったとき、すでにこれらの写真を撮ってから10年以上たっていました。いまさら大昔の作品を展示して、恥ずかしくてたまらない。作品を展示してもらっていてなんですが、できれば、あまり見ないでほしいです。
今回、個展という形で展覧会をしていただきましたが、将来、これらの作品をこれだけの規模で展示することはないと思います。写真集をつくりたいといってもらったので、何年か渋っていたんですけど まあいいかとなってつくってもらいました。せっかくつくったんだから、だれかには記憶してほしいという気持ちもありますが、でも、やっぱり恥ずかしいですーー。
2024年5月25日 御茶ノ水ギャラリーバウハウスにて(文責・田中真知)
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