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「あ、共感とかじゃなくて。」の気づき。渡辺篤とひきこもりとセルフネグレクトの私と。

波のしじまにいのちのきらめき。

ごきげんよう、もくれんです。

東京都現代美術館の「あ、共感とかじゃなくて。」を先日滑り込みで見てきました。その前の週に同じく都現美で開催していたデイヴィッド・ホックニー展を見ていたもんだから「うげー、また行くの遠いんだよなぁ。」と思いつつもタイトルからして物凄く気になるというか、職場で「あなたは共感するだけで何も私のために動いてはくれない。なんだったんだ、あの共感は。」と訴えられた私には刺さっていたので、奮起して行ってきた。やっぱり遠いなと思った。

同時開催中のホックニー展が今年1.2を争う展覧会なこともあり「あ、共感とかじゃなくて。」はそこまで混んでいなかった。都現美の面白いところは前も同じようなことがあったのだが、大人気展覧会の裏でやってる企画がクリーンヒットだったりする。「ライゾマティクス展」の陰で同時開催していた「マーク・マンダースの不在展」もかなりイケていた。

話を戻して「あ、共感とかじゃなくて。」は、やはり素晴らしい展覧会だった。共感について思い思い鑑賞者が書いたメモが展示されていたり、各世代の教科書があって自由に読めたりした。共感するというのは同じ経験(同じ教科書)じゃないと生まれ辛いのかなーとか考え考え鑑賞した。

美術展の冒頭で、この展覧会をどう感じるのもあなたの自由だよ、という言葉があった。英語表記もあったのだが「あ、共感とかじゃなくて。」は英訳すると「How I feel is not your problem, period.」となっていた。思わず唸ってしまった。英文を直訳すると「私がどう感じるかはあんたの問題じゃないから、まる」こんな感じだろうか。ちなみにGoogle翻訳にかけると「あ、共感とかじゃなくて。」は「Oh, it's not about empathy.」だった。
英文を読むことで元々日本語で読んでいた「あ、共感とかじゃなくて。」の受け取り方が微妙に変わってくるのも面白い。漫画の「違国日記」で「そんなことで傷つくの!?」と言われた主人公が「どう感じるか、何で傷つくかは私の自由だ。」と言っていたのを思い出す。そうなんだよね、何を感じるかは私の自由なんだよね。

「あ、共感とかじゃなくて。」を最初に読んだ時、下の句に「ほっといてもらえる?」がくるかな、と思った。もしくは「聞いてくれたらそれだけでいいの。」とか。共感とかいらねーよという風情を感じたのも、私の捉え方なんだろう。

さて、この展覧会で一番印象に残ったのは渡辺篤のアイムヒアである。渡辺篤自身、3年間のひきこもり経験があり、世の中のひきこもりの実際の部屋の写真を使った作品が展示されていた。ガラスとカーテン越しにひきこもりたちから提供された部屋の写真が展示されていて、まるで外から人の部屋をこっそり覗き見しているかのようだった。白黒写真なので、本当はごちゃごちゃ目にうるさいのだろうけど、物が溢れているのに静謐にも感じられた。

私の最初の感想は「私の部屋のがひきこもりより汚いな」だった。もちろんゴミだめ系の人もいるのだが、思ったより小綺麗な部屋でひきこもってるんだなと思った。そして、私はとうとう私は病気なんだと心の底から確信した。

私が部屋が片付けられないことについて、考えてもよくわからないので最早考えないようにしていた。昔は片付けたり綺麗に飾りつけたりするのが好きだった気もする。そんな時代も小学生まで遡ればあったような。よく覚えてないけど。が、もう長年、本当に片付けられない。実家も、物が溢れて汚いので遺伝かなと思ってる節もある。一方、母から「あんたの部屋が汚すぎて私は叫びそうになったわよ!私が学生の時はもっとちゃんとしてたわ!」と大学時代キレられたこともあった。当時「汚い家でしか生きてこなかった私に何言ってんだこいつ。それなら手本になる家にしてから言え。」と思っていた。働きはじめてからの実家の部屋がどんなだったかまるで覚えてないが、大学卒業時に空気しか収納できてないような実家のクローゼットをめちゃくちゃ綺麗にした覚えがある。掃除が嫌いなくせに何故かいきなりスイッチが入って大掃除で障子を貼り替えたこともあった。なおその翌年か翌々年かに母が普通の文房具の糊で障子を貼り替えて、その障子はえらいことになった。うちの母はバカではないと思うのだが、時々「それの代わりにこれ使うのは絶対ないだろ!」ということをする。障子の糊じゃなくて文房具の糊使うのもそうだし、氷がないけど冷えた麦茶を出したいからと言って麦茶を冷えた炭酸水で割って私に出してきたこともあった。すごく不味くてびっくりしたものである。麦茶はともかく、実家は物で溢れている。そして私の部屋もいつもぐちゃぐちゃに汚い。

一人暮らしをはじめて半年後に鬱で休職した。一人暮らしが原因というより仕事で結果が出なかったことや当時の恋人について両親共々大反対していたことなどが原因だと思っている。むしろ両親が私の恋愛事情に五月蝿いから一人暮らしをしたところもあり、一人暮らし自体は私にとってポジティブなことであった。とはいえ、休職中は食べない、着ない、出かけない生活だったので生活も心も部屋も大いに荒んだ。部屋中に湧いた小蝿が飛んでいるのをぼんやり眺めながらベッドに横たわっていると、目元に蝿が止まった。とうとうこの部屋で水分があるものが私くらいしかいなくなったんだなと思った。いつぞやの報道写真展で見かけた飢餓の子どもの写真を思い出した。本当に蝿って目元や口元にまとわりつくんだと知った。この時の鬱経験は大いに辛かったが、振り返って考える時は「まぁ結局自殺未遂も自殺もしなかったからなー、深刻な鬱でしたって顔しちゃいけないな。」と落としどころを見つけていた。でも、今改めて考えると自殺未遂しなかったからと言って私が辛かったことを過小評価する必要はない。さかしらに辛かったと過去ばかりを見る必要も無いけど、あの時の私はとてもとても辛かったことは認めて良いと思う。

復職してからも部屋はたぶんずっと汚かったのだと思う。それから何度か引っ越しをしたけど、どうしても綺麗に保ち続けられない。長い休職中などはめちゃくちゃ綺麗になったこともあったけど、働き始めると途端に両立できなくなる。このことをADHDグレーゾーンのせいにしてみたところで部屋は片付かない。片付ける気力が毎日ない。だが本当はやれないのではなくやりたくないだけだと知っているので、私の怠惰な性格だと思って生きてきた。QOLはどんどん下がるし、夜中3時まで寝つけず食い縛りはひどくなり歯が擦り切れて肌がボロボロになり摂食障害ではないのにご飯が全然食べられなくなっても、私の怠惰のせいだと思っていた。こういうのセルフネグレクトって呼ぶんだろうな、と思いつつバランスの取り方がわからない。最低限仕事をしていればヨシとして、私生活に目を瞑って毎日ズタボロな気持ちを抱えて必死だった。友だちにも会えるし私は大丈夫と言い聞かせた。本を読んでも中身が入ってこなくなったが、きっとすぐ良くなると自分に言い聞かせた。私は病気なんかじゃない。私は病気なんかじゃない。ただの怠惰な人間なだけ。バランス感覚がとれないだけ。だから恥じるこそしても、困った顔はしちゃいけないんだ、困ってるけど。

職場でもいろんな人に心配されはじめた。幸せになってほしいとチームメンバー2人からも言われた。みんなを心配させるなんて悪いことだ。私がいけないんだけど、どうしたら良いかわからない。いや、片付けたらご飯食べたりやるべきことは頭ではわかっている。わかっているから無理やり頼んだUberEatsを食べようとするが食べられない。食べたくならない。元々食事への興味関心は薄い方だが、気がつくと今日何にもまだ食べてないなという週末が増えた。平日食べる暇がなくて1日1食になってしまっていたから段々お腹がおかしくなっている。でも体重が激減するでもないし、病気なんかじゃない。自分の健康管理ができていない怠惰な人間なだけ。

そんな時に渡辺篤の作品を見た。で、私おかしいなと気づいた。これは明らかに病だと思った。むしろなんで今まで病気と思わず、このまま生きていこうとしてたんだ。去年はていねいな生活がしたいと言っていたが今年はそれどころではない忙しさに拍車をかけて「ていねいな生活は諦める。部屋は私史上最低ラインの汚さだし肌もずっと荒れて治らないけど、毎日働けてるからヨシ。鬱にはなってないしね。」などと思っていた。確かに気分が落ち込んだら突然泣いたりはしてない。してないし、ずっと片付けられない人生だから健康不健康は関係ないと思ってたけど、私たぶん今相当ヤバい。

私、福祉の力を借りてもいいくらいなところまできている。

渡辺篤の作品を見て、ヘレン・ケラーが水って言ったときと同じ衝撃を受けた。

とにかくこれは病気だ。生きてて働いてるからって困ってないと言い聞かせるのはもうやめだ。私人間らしい生活してない。仕事はほっぽいて、とにかく私をケアしなくちゃ。このままじゃ不味い。全然死にそうにないけど、これじゃ生きてるといえない。なんとかしなきゃ!!!

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