花は枯れてからが勝負。
花は枯れることを知っていて咲くんでしょうか。
こんばんは、もくれんです。
私たち人間は周りの老若男女を見て、身体が衰えていくことや閉経することを知っているけど、花は知ってるんだろうか。知っていてなお、咲くのは辛くないんだろうか。
私なら咲く前からやさぐれでしまいそうだ。どうせ枯れるなら咲く意味ありますかね。。?と考えてしまう。誰も私に見向きもしないのに。見向いてもらったとしても、受粉するかもわからないというのに?隣には同じように咲く花があるのに、私が咲く意味ありますかね?
花は短し、恋せよ乙女。
まぁ確かに花の間じゃないと受粉できないもんなぁ、正しいといえば正しいナと思いつつ、私は花の盛りも終わったかなぁと自分を振り返る。
24の時に出会った、60代半ばのちょいワル親父。8年経った今でも会えば口説いてくるが、会うたびに「今が一番いい時期じゃねぇか!」と言われる。
でも流石に30超えたくらいで会ったときは「腐りかけだな!腐りかけが一番美味いんだぞ!」に口説き方が変わっていた。
時代錯誤も甚だしい発言だけど、アラ還の親父の言葉なので苦笑いしつつ、まだ聞ける。
腐りかけだと言いつつ、「今が一番!」という口説き文句には思わず唸ってしまった。今が盛りだと言ったら流石に嘘になっちゃうもんなぁ。
私の部屋は毎週新しい花を買ってきて置いているので、日々花が咲き、枯れ、落ちる。
今日は蕾のまま咲くこともなく落ちてしまったアガパンサスの花を手にたくさん乗せてカオナシごっこをした。
先だってからジブリが映画館で上映されてるので千と千尋を見に行ったのだが、千尋じゃなくてカオナシのほうに共感してしまったからだ。そんなところに、私の仄暗い闇の底を見た気持ちになった。あんまりカオナシに共感する映画ではないと思うのだけど。
カオナシは、虚無の素晴らしいメタファーだ。
空虚で中身がなくて、それ故に寂しくて砂金を配り人気者になりたくて、千尋にも砂金を山のように差し出す。なのに、「私の欲しいものは、あなたには絶対出せない」と拒否される。
「絶対」とまでつけて、容赦ない千尋。
しかもその直前に「あなたは来たところへ帰った方がいいよ。」とまで言ってる。
来たところありきの前提ですけど、帰る場所ない人もいるんだよ、千尋。
そして、そんなカオナシは最後、坊や湯バードと一緒に糸を紡ぐ。銭婆がそれをヘアゴムにして千尋に渡す。
「お守り。みんなで紡いだ糸を編み込んであるからね。」
千尋が欲しいものを何ひとつ出せないカオナシが紡いだ糸で作ったヘアゴムを千尋は受け取る。
カオナシが虚無から出した富は受け取ってもらえなかったのに。
含蓄あるなぁ。
最終的にカオナシは銭婆に見出され、役割と家を手に入れる。虚無であることに変わらないけど「来たところ」を手に入れる。
最近、祖母と暮らして「来たところ」をregainしていた私はとってもタイムリーだった。
祖母は花で喩えたら、もう枯れ木だろうか。
自分のことは枯れつつあると思っているけど、祖母についてはそんな風には思えない。
むしろたくさんの実を宿した木だと思う。
葡萄の枝が細く葉が縮れていても、ジューシーな実をたわわにつけているように。
無花果が花がなくても美味しい果実を実らせるように。
その熟した姿は美しいなと私は思う。
花は枯れる運命を知っていて咲くのだろうか。
知っていて咲いているなら、その強さは実りの喜びがDNAに刷り込まれているからかしら。
枯れゆく身体の底に実りの情熱を蓄えて、最後のひとひらが散っても美しくありたい。