大人と子供の境界線
おはようございます。
昔思い描いていた、立派な大人になれているか。ふと昨晩そんな考えに至りました。
目標地点とは程遠い場所に立ちすくんでいる自分。
肉眼で辛うじて目視できるほどの距離から「何やってんだよ」と過去の自分による無言の圧力で押しつぶされそうな瞬間が、たまに来る。
社会人としてなんの武器も持たず放り出され、資本主義の意味すらとほとんど知らない無知未熟だった人間が、数多の社会の波に飲まれ、ある程度苦難を経て得た真理は、「大人はそれほど大人ではない」ということだ。
世界は思ったより綺麗ではない。
一時の利益や評判のために平気で嘘をつく奴。自己承認欲求がすこぶる強い奴。それ故他人を蹴散らすことを躊躇わない奴。妻子を持ちながら平気で不倫関係を望む男女。それをあたかもステータスかのように自慢する奴までいる。政治の汚職は当然な常識であるし、お金のことになると皆がめつい。
結局、他人のことなんて二の次で、いつになっても自分が一番可愛いくて、図体ばかりデカくなって中身はまるで子供じゃん、みたいな大人は五万と蔓延っていた。
誰しも欲求快楽には勝てないんだと痛感する。それぞれ自分のことで精一杯なんだという言い訳は免罪符として許されるのだろうか。
その「五万」の中に自分も含まれていると思うと、後味の悪い気持ちがくすぶり出す訳だが。
どうすれば大人に、所謂立派な人間になれるのか。
年齢における分類はまったく意味をなさない。いい年になって子供みたいな精神年齢のまま育った人間はいくらでもいる。
法律上、成年扱いは20歳からで、結婚は男は18、女は16から許されているが、各国の規定もバラバラだ。お酒は18から黙認されている。
可能性があるとすれば、その境目は個人の心境の変化に指標を頼るしかない。
「大人になりたいって思うなら、今はまだ子供だってことだよ」
「子供だったあの頃に戻りたい、と思ったなら、もう大人なんじゃない」
小学校の時、通学路で同級生と、なけなしの経験値で繰り広げたあのディベートは満更正解だったのかもしれないし、あの時点で真理に到達していたのかもしれない。
大人になった今、それがわかる。