各国小話その2 トルコとチューリップ
先日、Twitterでも少し触れたのですが、現在、東京六本木の国立新美術館にて、「トルコ至宝展」
が行われています。
先日、東京に行った際に時間が空いたので、足を運んでみました。
展示数はおよそ170点。煌びやかな宝飾品や繊細な装飾が美しい美術工芸品、そして日本とトルコの友好の礎を築いた明治期、日本からトルコに渡った美術品の数々も含め、日本とトルコの長年にわたる友好関係にもスポットがあてられた、大変見ごたえがあるものでした。
開催は5月20日まで。ぜひ足を運んでみてください。その価値は十二分にあると思います!
さて、今回はそんなトルコについて、(どちらかというとオスマン帝国にスポットを当てて)少し書いてみたいと思います。
1、オスマン帝国とチューリップ
現在のトルコ(トルコ共和国)の前身は、オスマン帝国です。
この帝国は、1299年のオスマン・トルコ朝調成立、そして1453年のビザンツ(東ローマ)帝国首都、コンスタンティノープル征服
を経て、15~16世紀にかけて巨大帝国に成長しました。
オスマン帝国の中心部は、世界史的に見てもまさに「要衝」と言える場所。現在のトルコ共和国の領域に当たるボスポラス海峡とダーダネルス海峡の両岸、つまりアナトリアとトラキア
です。
特にアナトリアは、いわゆる旧石器時代から人類の活動が活発にみられ、人類に鉄器をもたらしたとされるヒッタイト文明
もこの地で展開されています。
紀元前1286年頃、ヒッタイト王国対古代エジプト王国の「カデシュの戦い」は、世界で初めて公式な記録に残った戦いでもあり、初の平和条約が結ばれた戦いでもあります。
ヒッタイト重戦車隊による包囲網に捕らえれ、絶体絶命に陥ったラムセス2世と親衛隊の奮戦は、手に汗握る展開です。
さて、要衝の地、アナトリアを中心に発展したオスマン帝国は、最盛期にはほぼ地中海全域を支配下におさめ、隆盛を誇りました。
これは1683年ごろの、オスマン帝国の最大領土。
地中海地域の東側、バルカン半島、北アフリカ、アラビア半島や小アジアまでの広大な地域が支配下にあることがわかります。
このオスマン帝国、他の国にはない特徴を持っていました。
その特徴をざっくり大別すると
① ローマ帝国の再来
② イスラム帝国の再来
③ 東方遊牧民による征服王朝の再来
です。
彼らはビザンツ帝国を滅ぼし、地中海の覇者となった点ではローマ帝国の継承者であり再来です。
さらに、アラビア半島を完全に支配下にはおいていないものの、エルサレムを支配し、イデオロギーはイスラム教スンナ派。そしてスルタンは世俗の権力者と宗教権力者の二つの性格を持っていました。
そして、オスマン帝国の始まりはトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団だったと言われている点からも、遊牧民の征服王朝としての性格があります。
そして18世紀前半。オスマン帝国のスルタンはアフメト3世(在位1703~30)。
この時期、特に1718年~30年は、大宰相イブラヒム・パシャ
のもと、対外的にも融和政策を取り、国内情勢も安定した平和な時代でした。
イブラヒム・パシャはフランス宮廷との活発な交流を図り、文化人を保護する政策を推進、イスラム文化とヨーロッパ文化が融合した華麗な文化が生まれました。
その時代のことを「ラーレ・デヴリ(チューリップ時代)」といいます。
※今回の展示会は、その時代のものも含まれています!
これが当時のものに近いチューリップ。
今のものとはだいぶ違って、スマートな感じです。
さて、この時代がなぜ「チューリップ」の名を冠するかというと、実は当時、ヨーロッパ宮廷ではチューリップ栽培が一大ブームとなっていました。
その文化がフランス宮廷を通じてオスマン帝国に「逆輸入」されたのです。
しかしそれではややミーハーなお話になってしまいます。
オスマン帝国でチューリップが重んじられた理由は、チューリップの花の起源にあります。
実はチューリップという言葉、トルコ帽(チュルクリップ)
が由来であるとされています。
元々チューリップは、オスマン帝国の庭園で栽培されていました。
そして、その美しさに魅入られたあるオランダ人商人がスルタンに求め、賜った球根を本国に持ち帰り、栽培を始めたとされています。
(そういえばオランダは今でもチューリップの世界的産地ですね)
その形がチュルクリップに似ていることから、その言い方が転じて「チューリップ」となったのです。
その後、オスマン帝国では栽培は衰退してしまいましたが、「ラーレ・デヴリ(チューリップ時代)」を迎えてその栽培が復活、再び流行します。
この時代はオスマン帝国の西欧化が進んだ時期でもありましたが、宮廷の浪費によるインフレが庶民の不満を高める結果にもなりました。
1730年、パトロナ・ハリルの反乱が勃発、イブラヒム・パシャは処刑され、西欧化の試みは失敗。ラーレ・デヴリも終焉を迎えました。
2、トルコ族の一休さん、ナスレディン・ホジャ
日本で「頓智」と言えばまず名前が挙がるのが一休さんではないでしょうか。
トルコ民話にも、一休さんに近い人物が登場します。
その名はナスレディン・ホジャ。
実在したかどうかも含めて、彼が生きた時代には諸説あります(13世紀から15世紀くらいまでの間と諸説)。
彼の頓智と言えばこんな感じ。
彼は結婚してから1週間もたたずに息子が誕生しました。
するとホジャは、なぜか慌てて学用品を買いに店に走ったのです。
人々が不思議がって
「まだ生まれたばかりなのに、なぜ学用品なんて必要なんだい?」
と尋ねると、彼はすまして
「10か月かかるところを5日で生まれてきた息子だ。学校にもすぐに上がってしまうさ」
と答えたと言われています。
またある時、ホジャに質問した人がいました。
「すべてが神の思し召しだというのは真実だと思うか」
すると彼は
「真実だ」と言います。何故そう思うか尋ねると
「そうではなかったら、今まで何でも自分の思い通りになっていたはずだ」
と答えました。
考えてみると、日本の大喜利にもテンポが似ています。
為政者への皮肉など、割ときわどいところに切り込んでいくネタもあります。
トルコと日本は友好国ですが、こういった文化的な部分でも通じ合うところがあるのは興味深いですね。
というわけで…今回は、トルコ至宝展に関連付けて、オスマン帝国について少し書いてみました。
お時間がある方、是非至宝展にも足を運んでみてくださいね!
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
サポートは、資料収集や取材など、より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。 また、スキやフォロー、コメントという形の応援もとても嬉しく、励みになります。ありがとうございます。