日本の「時」の歴史
今日、6月10日は「時の記念日」です。
東京天文台と生活改善同盟会が1920(大正9)年に制定したもの。
671(天智天皇10)年4月25日(グレゴリオ暦換算6月10日頃)に、近江大津宮で水時計を作って計測し太鼓によって時刻を知らせていた、とする最古の記録が『日本書紀』にあることが由来です。
「置漏尅於新臺。始打候時動鐘鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也。」
(漏尅を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用いる。此の漏剋は、天皇の皇太子に爲す時に、始めて親ら製造りたまふ所なりと。)
これですね。
漏尅(漏刻)というのは水時計のこと。
水時計とは容器に水が流入(または流出)するようにして、目盛りを読むことで時間を測れるようにした装置のことです。
漏刻の場合は、階段状にいくつかの容器を配置し、一番上の容器から管で順番に下に水を送り、一番下の容器に立てた矢の浮き沈みで時を測ります。
(近江神宮HPより)
中国由来の東洋式水時計は漏刻、西洋式のものはクレプシドラと呼ばれますが、どちらも便利で比較的正確、しかも天候や昼夜を問わず使えることから、太古の時代から近代の紡錘(重り)式機械時計の普及まで、長く用いられました。
あ、それと…この記念日制定の目的のもうひとつは、
「時間をきちんと守ろう。そして、欧米並みに生活の改善・合理化を図り、産業を発展させよう」
ということ。
日本の近代化のために、国民に「時間」を意識させることを国策としていたんですね。
現在、日本は世界でも最も時間にうるさい国のひとつですが…このようなスローガンがあるということは、昔はそうでもなかったのでしょうか。
現在の時刻は、「1日を24等分して1時間毎に区切ったもの」です。
これは季節ごとの変化などもなく、「定時法」と呼ばれています。
日本の暦は、一部の例外を除いて一貫して定時法で作られています。
しかし、室町~江戸時代の一般社会では、「夜明け・日没を境にして昼と夜を区別し、時刻を決める」方法が用いられていました。
季節によって昼と夜の長さは異なりますが、それをそれぞれ6等分して時刻を決めました。これを「不定時法」といいます。
この場合、季節ごとに時間が微妙に異なることになりますね。
こちらでは、江戸時代の不定時法への時刻換算ができます。面白いです。
不定時法はかなり複雑な時間測定が必要なのですが、江戸時代を見ると、城の時計番が時刻を測定、一定時間ごとに鐘を鳴らして時刻を知らせる「時の鐘」というシステムがありました。
城の鐘が鳴ると、それに続いて寺や町の鐘が鳴り、時刻を伝えていくのです。
これは日本独特のシステムで、日本中に普及していました。
江戸時代は時間にルーズかと思いきや、この時の鐘のおかげで、きちんと時間を意識して生活はしていたようです。
商人の「早起きは三文の徳」という戒めは、その代表例とも言えそうですね。
江戸時代後期になると、携帯式の日時計(紙製)
も出現します。
「時の鐘」が聞こえない場所で手軽に時を知ることができるという便利グッズ。
その季節に合わせた札を垂直に立てて太陽に向け、影の長さで時刻を読み取る仕組みで、各地の地図に、その地域に合わせた日時計が付属しているなど、旅行用としてもかなり普及していたようです。
高級品になると、方位磁石や算盤付きのものまで。
なかなか手が込んでいます。
ちなみに、江戸時代は不定時法が一般的だったこともあり、西洋マニアだった徳川家康がスペイン国王フェリペ3世から贈られた1581年製の洋時計(定時法対応)
も、コレクションとして一度も使われずに保管され、オリジナルの状態を保った奇跡の時計として注目を集めています。
それ以前の安土桃山時代にも、フランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師が洋時計を持ち込み、献上した記録はあるのですが、やはり定時法の時計だったため一般に普及することはありませんでした。
17世紀になると、日本では、不定時法に対応した日本独自の機械時計、「和時計」
が開発されます。
※豆知識ですが、和時計の中でも二挺天符(2本の棒天符=時を刻む部分 を持つ時計)
動画を見ていただくとわかるのですが、同時に2つの棒天符が動くことはありません。上が昼用、下が夜用の天符だからです。
時代劇の小道具で使われている場合、両方が元気よく動いていることがありますが…。
さらに、明治維新後の1873(明治6)年1月1日、グレゴリオ暦が採用されました。
それに伴い、時間の測り方も西洋と同じ24時間均等割りになり、和時計は廃れ、西洋時計が出回るようになりました。
国内で初めて西洋時計を作ったのは服部金太郎
が創立した精工舎(現在のセイコーホールディングス)。
1913年には国内で初めて腕時計の生産に成功。現在の世界的な時計会社、セイコーの礎を築いたのです。
…ちょっと話は戻りますが、天智天皇が設置した「漏刻」は定時法、不定時法どちらのものだったのでしょうか?
これはどうやら、「定時法」だったようです。
漏刻が導入されたのは、律令体制の成立に伴う中央集権化で、書類作成日時などの実務面の管理を統一基準で行うためなど、実務上の理由だったとも言われています。
また、天文学・暦法でも、用いられるのは一貫して定時法です。
当時の天文学は、政治の世界にも大きな影響を与える存在でしたので、それらを管理するツールとして漏刻は不可欠だったと考えられます。
定時法の漏刻は、「時空を管理する朝廷」という中央集権のシンボル的な存在とも言えます。
ただ、実際の生活においては、日の出や日没に即した不定時法が便利なので、その後の国内では定時法と不定時法が混在する状況が続きました。
律令体制の崩壊に伴い、この漏刻による定時法の時間管理システムも廃れていきました。
明治時代に入り、日本が中央集権化する中で再び定時法の基準に戻ったのは、歴史の共通点として興味深いところですね。
というわけで、今回は時の記念日にちなんで、日本の時に関する歴史について書いてみました。
まとまりがない点についてはご容赦ください…💦