見出し画像

05.万人の万人に対する闘争

トマス・ホッブスは、人間にとっての善悪の判断基準は欲求であるとし、「その人がやりたいことがその人にとっての善」であり、「その人がやりたくないことがその人にとっての悪」であると主張したそうな。

つまり人間と人間が自然状態(何にも抑制されず、何にも縛られない自由な状況)で関係しあうと、AとB、或いはCもDも、みんな自分のやりたいことを主張、行動し、結果的に人はみな闘争状態になるのだと。

「だから国とかルールとかで、人間は管理規制されなければならない。人間が持つ自然権を、国家に対して全て預けよ」
そんな感じでホッブスさんは強烈に主張。今考えると、ファシストとか、独裁主義だとか言われそうだが。

翻って現代、昨今の件、プーチンからすると「全部そのへんはロシアだから」、トランプに言わせれば「お金やったんだから資源よこせ(リターンを提供しろ)」、ゼレンスキーからすると「世界がウクライナにお金払うのは当然」って感じ。

イチ人間は国家や法律、その組織が規定するルールに縛られるが、国家となるとそれは曖昧で、仮に "国際的な何か" を犯したとて、パワーゲームに勝てば "勝てば官軍" となる。誰が "世界のリヴァイアサン" になるか。それが万人の万人に対する闘争に対する解である。これがトランプ流、または中華思想。要はこれが正しいと考えるかどうか。

ニッチ戦略というのはビジネスでよく使われる言葉で、大きな市場における競争ではなく、狭い市場での生存拡大を目指す戦略を指す。ただし生物学でのニッチとは「ある生物種が生息する範囲の環境」を指す言葉として使われ、ひとつのニッチには、ひとつの生物種しか住むことができないとされている。仮にひとつのニッチに複数の生物種が存在すれば、ひとつの生物種になるまで殺し合いを行い、最終的にはそのニッチに住む生物種はひとつとなる。我々人類も、ホモ・サピエンスも、他のサピエンスを皆殺しにして今日があるのだから、全く同じだ。

よくアニメや映画でもあるような「人間はいつまでも愚かである」という描写は正しくない気がする。リヴァイアサンを目指し、万人は万人に対する闘争を続けることは、生物種としての本能なのだと思う。そして将来的に「全人類はひとつのニッチに住まうひとつの生物種であり、全人類ベースの最適化を考えるべきである」というSDGs論さえあり得ると思っている。その時、最適ではない場所、民族、思想、文化、歴史は全て削除され、PC内のクリーンアップと最適化をするように、人類浄化が行われるかもしれない。

そう考えると、万人が万人に対する闘争をする状況は、果たして不幸なのだろうか?全人類ベースでの最適化をAIが実行すれば、血も涙もない所業が判断されて実行される。勿論、前提次第でその結果も変わるため、誰でもが粛清の対象になりうる。そのようなディストピアよりも、寧ろこの今の方が、まだ愛くるしいような気さえするのは私だけだろうか。

硬直して解が無い局面において、突拍子もない極端なことを言って場の空気を変えるというのはビジネス(営業)でのテクニックのひとつ。その後の対応が腕の見せ所になるが、どうかトランプがそのテクニックを使っていると思いたい。

ゼレンスキーがNATO加入を諦め、ロシアが軍を引き、ロシアがウクライナから奪った土地にて、各国(ロシア含む)が経済支援(投資)をして発展させて、経済面でウクライナ国民に還元し、そこでもたらされた利益を各国も享受するという流れはできないか。案外私は、トランプを支持している。日本のメディアが「トランプはロシアに同調」と言うが、それは想像力の欠如だと思う。じゃあこれ以外に戦争を終わらせる方法はあるのか?あるとしたらプーチンの暗殺ぐらいだ。そんな血で血を洗うではなく、お金で平和を買うことの何が悪いのだ、と私は思う。(むしろ一番良いお金の使い方ではないか)


いいなと思ったら応援しよう!