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【備忘録】ポッキリくれよんズ『いっかいやすみ』について

こんにちは。村田羊(むらたらむ)という名義で社会人劇団に携わらせていただいている者です。

これまで、舞台・制作・衣装小道具・宣伝美術などのスタッフを主に務めてきましたが、この度縁あってポッキリくれよんズさんの第8回公演『いっかいやすみ』に出演させていただきました。

千秋楽から一夜明けてみると、なんだかこの稽古期間を含めた3ヶ月間はすべて夢か幻で、本当は今そうしているように、ベッドの上でぽちぽちスマホをいじってるだけだったんじゃないか、という気すらしてきます。
なんか、すごく良い夢を見たあとの、謎に充実感のある朝みたいな。そんな心地です。

以降、コンプレックスにまみれた自分語りになるので、読み進めていただける方は適宜スキップいただけたなら幸いです。
⚠️一万字あります。pixivのBL小説か?


人形劇のこと


小さい頃から演じること(特に声の演技)が好きで、一方で自分のルックスやキャラ(卑近な言葉で言えばド隠キャなので)から生身の演技の道を歩むことが出来ず、高校の部活で人形劇に出会い、「これなら自分は黒子に隠れて、純粋に演技だけを観てもらえる!!」とその道に身を浸すようになりました。

高校の人形劇部は、
①夏休みや冬休みに保育園や老人ホーム、障害者施設を訪問して上演する10〜15分くらいの短編
②秋の学園祭で上演する1時間ぐらいの長編
上記①②が主な活動になっていて、当時の私は(いまもだけど)「ボランティア」とかいう無償奉仕の響きが大好きだったので、特に①に惹かれ、「自分にぴったり!」と思って戸を叩いたのを覚えています。

はじめのうちは、いつもはボソボソ、トツトツと、背を丸めてしか話せない自分が、黒子の中で解放されてただ演技が出来ることが嬉しかったのですが、①のボランティア公演を経ていくなかで、「これ、訪問先の利用者さんは本当に楽しんでくれているのか?」という疑問を抱きはじめました。

例えば、老人ホームの利用者さんは耳が遠くて、黒子をかぶっている上に指導者不在でロクに発声練習の訓練も受けていない高校生の声は、おそらく半分も聴こえていなかったと思います。上演中に、「なに? よく分からない」「つまらない」と真っ向から声が投げかけられることすらありました。
そこにいる方はほとんどが車椅子に座られていて、職員さんに「今日は人形劇の日ですよ」とひと所に集められたら、そこから動くことができないのです。どんなにつまらなかったとしても、立ち去ることができない。
けれど、終演して、黒子を取っておひとりおひとりに「ありがとうございました」とご挨拶に行くと、そのときはじめて「孫に似てる」と顔を綻ばせて、差し出した手を握りながら笑ってくださるのです。

これ、人形劇やらなくて良くないか??
自分たちの自己表現の場として、ボランティア先を利用しているだけに過ぎないのでは? ただの自己満足に過ぎないなら、この行いに何の意味があるのだろう。

当時の後輩に、帰り道の電車の中で、「ボランティアのための人形劇なのか、人形劇のためのボランティアなのか」という悩みを、取り止めもなく吐露したのをよく覚えています。

そうして私はだんだんに、奉仕の気持ちよりもむしろ自分のエゴのために人形劇部に所属していることを自覚しました。

ボランティアなら、人形劇以外にももっと喜んでいただける方法はいくらでもある。わらべ歌や手遊びや、懐かしい演歌を一緒に歌い、みんなで体操するのもよいかもしれません。

それでも私は演技がしたいと思ってしまった。なら、私にボランティア公演をする資格は、正直に言ってないも同然で、そんなときにタイミングが巡ってきたのが、上述した②の学園祭での公演でした。

1時間くらいの長編で、主な集客は部員の友人や保護者。ボランティアとは違って、ある程度自分の意思で観に来てくれる人たちを対象に打てるのはこの公演だけでした。

私が所属していた頃は、たいてい西洋問わずヒロインもの(かぐや姫とか、不思議の国のアリスとか)を題材にしていて、長編ゆえに部員で話し合いや稽古を重ねながら、役の心情をつかんでいく、、、みたいな作業が発生するのも嬉しくて。

そんな中でもいちばん今の自分に影響を与えたなと思っているのが、高校3年生のときに携わった『塔の上のラプンツェル』でした。
まず、上述したような技術の訓練をろくに受けていない我々の現状を見つめ直してくれた部長が(伝わる人に伝わればよいと思って書きますが、ピヨのことです)ボランティア先で知り合った大ベテランの人形劇人であるマダムを指導者として連れてきてくれて、バツグンに執筆センスのある脚本家(ケロのことです)がディズニーの映画を元に大胆な改変をおこない、人形劇というメディアに非常にフィットした作品を作り上げてくれました。
話が逸れますがこの脚本は本当に贔屓目なしに、いま読んでも「すげー高校生がいたものだな、、、」と思うので、機会があればぜひご一読いただきたいです。

そんな最高の環境下で私は、ラプンツェルの母のゴーテル役を預かりました。これがまぁめちゃくちゃに楽しかった。
いわゆる二面性のある毒親で、娘が塔にいるうちは優しく接するけど、外に出ようとするとヒステリックに怒鳴り散らして、間男(間男?)が娘を連れ出そうものならナイフで刺し、これまたヒステリックに高笑いする、みたいな。いま見返すと、丸くてかわいい人形にさせていい芝居を全くしてない自分にウケます。
全然、私には執着を拗らせる依存相手もいなければ人をナイフで刺せるような度胸もないけれど、ある種役の心情を憑依させて、全然違う人の感情を出力できるのが嬉しかった。

たぶん、今も昔もなのですが、自己肯定感がめちゃくちゃ低いんですよね。自分が自分のありのままでは受け入れてもらえないと思っていて、でも演技している間は、脚本に定められた、言うことを許された言葉を話すことで、そこにいることに意味性が生じる。自分の居場所ができる。
だから、演技が好きなんだと思います。

少し話がそれましたが、ゴーテルの役を「いつものむーさんと全然違った」と、恐らくだいぶ引かれながらも言ってもらえたり、「演技上手いね」と言ってもらえたことが自信にもなって、こういう演技をまたやりたい、別の人の人生を預かってみたいと思い、大学を機に生身のお芝居をするべく学生劇団に所属するに至ったのでした。

出身劇団のこと


私の出身学生劇団は、「すべての人に、演劇を。」をモットーに、演劇がしたい!と戸を叩いた人を無条件に受け入れてくれる、そんな場所でした。
そう、オーディションも何もなく、志望した人間全員を役者として舞台に立たせてくれるんですね。なのでいつでも役者は飽和、スタッフは手薄の状態で。
大学1年生で、生まれて初めて生身で立った舞台は本当に幸せで、これ以上の経験は先の人生では出来ないんじゃないかとすら思ったけれど、借りたものは返さなきゃね、という気持ちになって。

1年生を舞台に立たせるために出演を諦めた先輩スタッフが沢山いらっしゃるのも知っていたから、この最上の喜びの席にいつまでも座っていられない、むしろ新しい椅子を作ることができる人になりたい。シンプルにものづくりも大好きだしね。
そう思って、大学2年生からスタッフ専門に転じました。

全然一般的な感覚かな〜と思っていたら、そうではなかったらしく、「次の公演ではみんな役者を降りてスタッフをやろう!」みたいなことを劇団運営を話し合う場で提案したら、同期には「皆が皆お前みたいなヌルい奉仕願望を持ってると思うな」的なことをとても優しく言われ、「??」となりました。
そしてこの指摘は本当に正しく、ほとんどが役者志望で入団していた私の同期の多くは、最後までスタッフ業務も抱えつつも、役者を貫いていました。
当時はマジで、「なんで?」と思っていたのですが、当然ですよね。だって、役者がしたくてサークルに入ったんだから。

あと、私は自分の演技(とくに身体性)に自信がなかったから、それもあって役者をするのは身に余る贅沢で、こんなんオーディション制だったら一発落ちやんと思って身を退いたのもあったけど、皆はちゃんと魅力的で素敵な、自他ともに認める実力ある役者だったので、さもありなんの気持ちに今こそなっています。

なっています、が、当時はなんだか役者は特権ある存在で、椅子に座るだけ座り、後に座るかもしれない人のことや、椅子に座りたいと思いながら座れない人のことを見て見ぬふりをする、サークルメンバーというより「お客さま」だな、と思っていた節がありました。その頃の同期も読んでくれているかもしれないのにごめんなさい。なんと歪んだコンプレックスか。己で己が恥ずかしいです。

「お客さま」じゃなくて、一緒に舞台を作る作り手になってほしいのに。稽古場で、稽古場の柱になってくれる人もいたのに、視野の狭い私はそんな思いを拗らせていきました。

のちにスタッフ不足と一部への負担集中が引き金になり、「すべての人に、演劇を。」のモットーがキャパオーバーを迎え、出身劇団は学生サークルとしての歴史に幕を閉じることになりましたが、これらの経験を経て獲得した(してしまった)役者というセクションに対するコンプレックスと、多角的に物語を生み出す一助となれる総合芸術であるからこそのスタッフとしての喜び、何よりここで出会えたあまりにも多くの恵まれたご縁。この3つが、今日まで私に演劇を続けさせてくれています。

社会人になってから

そんなこんなで就活がはじまり、せっかく先輩方の卒業公演に演者として呼んでいただけたのに、生活の慌ただしさと不採用通知のトラウマからかほぼ記憶が無く(今日ようやく見返してあまりの内容の良さにボロ泣きしました)、コロナ禍に突入して演劇活動もゆったりとなっていって、気がつけば社会人になっていました。

その頃から、サークルの先輩に連れ出していただいて、宣伝美術としてフライヤー類のDTP(あってるかな)をしたり、それこそポッキリくれよんズさんの舞台タタキをさせていただいたり、制作手伝いをさせてもらったりし始めて、「村田羊」を名乗るようになりました。

それから、現役の学生にもかかわらず母体の団体が休眠してしまったサークルの後輩さん達が、強く、たくましく、めざましく演劇を続けていて、その主宰団体の舞台監督を務めさせてもらえたりもしました。
本当に身にあまる幸福だったけれど、スタッフとして半人前で、1人でメンバーを支えるにはあまりにも力不足な自分自身を省みるきっかけになりました。

そう、社会人になってからというもの、演劇は自己表現の場というよりかは、「自分がここにいていいこと」を確かめる場みたいになっていて。新人で使い物にならない職場の自分からの現実逃避。かといってスタッフワークも自分の脳みそを使っている訳ではなく、基本的にチーフに与えられたことを淡々とこなすのみで、あまりにも受動的。

こんなんではダメ、という気持ちと、いつまでもくすぶり続ける役者へのコンプレックスに「やりたいならやってみろよ」と自分に投げかける思いで、声優学校に通ってみた時期もありました。
いや〜、自分には声優を仕事にするのはムリ、ということが大変よくわかりました(キャリアを投げ打ってからようやく卓につける、あまりにも確率が低い博打をうてる度胸も技量も覚悟もない)。
それから、社会人劇団のワークショップオーディションに顔を出してみて、フィードバックをいただくなどして。やはり余程技量がないと社会人になってからは舞台に立つことはできない、ということを再認識しました。

そうこうしている間に、敬愛すべき大好きな先輩兼ポッキリの制作さんから「次の小屋入り7月だから空けといて」と言われ、シアター711のかわいい受付ボックスでチケットをもぎる自分のイメトレをしていた矢先、主宰さんから今回の出演の打診をいただきました。

マジで青天の霹靂でした。
本当に?

『いっかいやすみ』のこと

オファー・稽古期間


人間って喜びがすぎると恐怖すら感じるんですね。学生時代の自分が聞いたら、憧れの大好きな劇団さんからのオファーなんて飛び上がって喜んで即答するだろうに、私はお断りする可能性すら視野に入れながら、何回も企画書を読みました。

舞台に立つのは4年ぶりです、ということ、演技に自信がないこともお伝えして、それでも受け入れてくださった主宰さんに甘え、出演を決意しました。

稽古期間中はもう、楽しい・嬉しい・幸せなのはもちろんなのですが、実力者揃いの共演者の皆さまに心底尻込みして、私がこの中に混ざってこの劇の価値が下がらないだろうか、私にオファーしたことを主宰さん達は後悔していないかと、そればかり考えていました。

積年の反り腰や、たるんだお腹も恥ずかしく、悪あがきみたいに筋トレに励んだり、ろくに知識もないのにファスティングしてみたり。演技がダメでも、せめて少しでもマシな外見になりたかった。

一方で、そんな自分だからこそ、この「木村葉子」という役を預かれるような気もしました。
最早ネタバレも何もないと思いつつ書き進めますが、彼女はどのキャラクターとも違い、なんの正当な理由もなく舞台となる貸別荘に忍び込んだ闖入者です。
彼女のセリフに「私の居場所じゃないって分かってるから」というのがあるのですが、私も、自分本来の居場所は劇場ロビーやたたき場のはずなのに、なぜか稽古場にいる。そんな感覚でした。

語弊がないように強調しますが、この公演の稽古場はほんとうにあたたかく、経験の少ない私にも皆さん対等に、尊重しながら接してくださって、本当に本当に、とても嬉しかったです。
一方で、上述した「私の居場所じゃない」ような疎外感、自分の異質さをひしひしと感じ、「これも演技に昇華しなければな」と日々思いながら稽古に励んでいました。

小屋入り


さて、小屋入り。
近年、楽屋には衣装スタッフとしてしか立ち入っていなかったので、鏡前に自分の席があるのが新鮮で。
それから、衣装メイクさんが、メイクプランが書かれたメモを役者ひとりひとりに渡してくださり、「次衣装で劇に参加したときは絶対マネしよう」という学びを得ることができました。

う、うれしすぎる

そう、正直ずっと(というか今も)、自分が役者を出来るのは今回が最後と思いながら日々を過ごしていました。マジで棚からぼたもちみたいな話でこんなご縁をいただいたけど、そんな奇跡は2度も起きないぞ、と。
それも、稽古場で疎外感を感じていた理由のひとつかもしれませんね。他の皆さんには、絶対に次がある。私にはそれがない。だから、役者の目線から見えた景色を次のスタッフ小屋入りに絶対に活かす、というモチベもありました。

初日


そして迎えた初演。
そう、今回デカめの驚きが2つあったのですが、そのうちのひとつが私の扱いで予約してくれた人の多さでした。もちろん私1人の力ではなく、出身学生劇団関係の方はほぼほぼ裏で手を引いてくれた自称「ジャーマネ」こと敬愛すべき大好きな先輩兼ポッキリの制作さんのおかげなのですが、職場で親しくさせていただいている同僚や、同じ部署の後輩さん、上司、中高大の友達、友達の友達、さらには久しく会えていなかった中学校の部活の後輩さんまで、「走馬灯か?」と疑うほど、人生の色んなタイミングで出会ったたいせつな人々にご来場いただきました。三連休とドン被りにも関わらず。本当に、本当にありがとうございました。

それともうひとつ驚きだったのが、これまでスタッフとして携わってきた社会人劇団の方々に、名前と顔を覚えていただいていたことでした。
小屋入りもほとんど同じセクションの中の人としか話さず、影も薄い私はどなたからも認知されていないと割とガチで思っていたのですが、わざわざ終演後に「ラムちゃん」と話しかけてくださる方の多さにびっくりして。

振り返ってみれば、今回の共演者、主宰・演出陣のみなさんは皆、わたしを「ラムちゃん」と呼んでくださっています。
学生と社会人の瀬戸際、「見て1秒で偽名だって分かる、なんのひねりもない名前でやっていこう」とマジで5秒ぐらいで決めた「村田羊」という名前。そこからいただいてきたご縁の数々に、このときようやく自覚的になりました。
社会人になってから4年。なにも生み出せてないと思っていたけれど、気がつけばこんなにも、言葉では形容しきれない、あたたかなものが積み上がっていたのだな、と。

2日目


それから、公演2日目。
「客席を巻き込む」、場の空気を取り込んで、役者もお客さんも息の詰まる芝居をすることに自覚的になった日でした。
あと、来てくださった友人や同僚にあいさつがてらちょっとお茶などをステ間でやっていたのですが、そこから得られる感想もマジで糧になって。
星の数ほど書きたいことはあるのですが、いただいた感想を絞ると、特に以下の2点がその後の演技を良い方に導いてくれたんじゃないかなと思っています。

◎最終場に登場するキーアイテム、「ティラミス」の語源
→「私を元気づけて」という意味らしく、「あそこで出てくるのがティラミスなの、マジでいいね」と言われ、「そうなの!?」となりました。

◎不登校児童の多くは、自分が学校に行けない理由を言語化できない、わからない
→小学校教員をしている方からもらった感想です、私が「自分はバックレたいと思ったことがない」とこぼした時に教えてくれました。

そんな感想を糧に、大学1年生のときの初舞台『今夜、ぼくは帰らない。』の客入れ曲を気入れソングにしつつ、「葉子ちゃんもひとりで『今夜、ぼくは帰らない』をやっているよなぁ」とエモに浸りながら臨んだ2日目ソワレを、演出さんにお褒めいただいて、天にも昇る嬉しさでした。
あぁ、初日からこの芝居ができていたらよかった。それでも認めていただけていることが嬉しくて、そのあと「いけないいけない、葉子を演じるために疎外感を抱き続けなければ」と思い直したりもしました。

楽日

昨日ですね。何を考えていたんだっけ。
なんか、初日や2日目以上に記憶がないかも……いちばん近しい過去なのに。

でも、とにかく2日目にキャッチした感覚と、オファーから小屋入りに至るまで抱き続けてきた疎外感を見失わないように、集中力を高められるよう努力していたような気がします。
あと、差し入れでもらった「バターのいとこ」がおいしすぎて、皆で目を剥いた。
そう、本当にたくさんの差し入れも、ありがとうございました。いただいたお菓子は村田と座組のみなさんの胃袋を満たしており、いただいたお花は今日も元気に村田家で可愛く咲いております。この場を借りてでごめんなさい、心から御礼申しあげます。

千秋楽は、いい意味で気が抜けていたような気がします(観る人にとってもそうだったら良いのだが、、、)。共演者のみなさんの演技の細かなニュアンスや、客席の温度も受信して、その結果を出力できたかなと。
最終場のティラミスの場面は、楽ステがいちばん自分の中で手応えがありました。
初日からやれ〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!

バラカタシ

それで、正直ここを書きたくてこのnoteを書き始めたといっても過言ではないのですが、マジで、マジでバラシ兼カタシ(バラカタシ)が楽しかった。
本当に。アドレナリンが多分ドバドバ出てて、公演期間中でいちばんテンションが上がってしまい、共演者の皆さんをドン引きさせてしまった。

やっぱり、インパクトやナグリを持つと落ち着くんです。しかも、バラシもカタシもタスクがシンプル。安全に怪我なく、劇場をもとの状態に戻し、構造物の釘を抜いて抜いて抜きまくり、材のレベルまで戻すことができれば良いのだから。

「あ、私はここの人間だな」と思いました。長い家出を経て、ようやく家に帰ってきたような気持ち。
思えば、オファーのLINEをいただいた日も柏でタタキしてました。
たたき場というお家を離れ、思いがけずたどり着いた稽古場で、一喜一憂し、認められた気がしたり、やっぱり自分の居場所じゃないや、と落ち込んだりもしながら過ごしたこの3ヶ月。
私、やっぱり葉子ちゃんだったのかもしれません。

役のこと

最初は、全然身体に馴染ませることができませんでした。
稽古の序盤は脚本も流動的で、葉子ちゃんがいま以上に無茶苦茶で幼いキャラだったのもあり、せっかく役を預かるのに、こんなんじゃ期待に応えられない、、、とかなり苦悩しました。

そのうちに書き上げてくださった3場(直美の「別れよう」の後〜知宏「苦い」まで)を読んで、ティラミスの場面を知り。
こんな、こんな大切なシーンを自分が預かっていいのか? と身が震える思いでした。

知宏さんーー葉子にとっては、トレーナーに近しい存在が、あんなにも悲しく打ちひしがれて、ついさっき知宏さんから詰められたばかりだけど、何となくトレーナーにもトレーナーの辛いことや悲しいことがあったりしたのかなぁと思いを馳せ、直美の思いも背負ったティラミスを渡し、そんな不器用な慰めに知宏さんが本音をこぼす。
すごく美しい場面だと思います。
上と下論争も絡んできますよね。まさしく「いちばん上」である知宏に、「いちばん下」である葉子が施しをする。脚本があまりにも巧みすぎる。

そこに、私のガワがあっていいのだろうか。

そう思いながらだったのですが、昨日の打ち上げで脚本家さんから「最後の方はラムちゃんの演技を観ながら書いた」とお聞きして、もしあの美しい場面が生まれたきっかけのひとつに少しでもなれていたのだとしたら、それだけで座組に参加させていただけてよかったな、と心底、思いました。

帰宅

ということで今、何ヶ月かぶりの何もない休みの午後の時間いっぱいを使いこのnoteを書いています。

本当に、贅沢な旅でした。一瞬たりとも気は休まらなかったけれど、自分がこれまでにしてきた蓄積の、そのどれが欠けてもここに辿り着くことはできませんでした。

何というか、旅を経て、自分が持っているものの価値を再認識した気持ちです。
学生時代、特にサークルをたたむかどうかの議論になっていたとき、ずっと誰かに「あなたは間違ってない」と背中を撫でてほしかった。
もちろん当時、私は全てを間違えており、それゆえに今があるのですが、時を超えて、ようやく今の自分自身を認められあげられるような気持ちがします。

バラシでいっぱい動けたのも本当によかったな。少しでも早い退館に(たぶん)貢献できたし。スタッフ経験も、全然、ほんとうに無駄じゃなかった。

これから

全然何も決まってませんが、来年の5月はポッキリの次回公演に制作で小屋入りかな! と勝手に思っています。呼んでもらえたらね。
ポッキリくれよんズさん、オーディションをやられるそうなのでご興味のある方はぜひ。本当に幸せで上質な経験でした。私の演技が良いと思ってくださった方がいたとしたら、それは全て演出さんの采配によるものです。石橋さんにご指導いただけたこと、一生の宝。重いな。

スタッフとして独り立ちできていない未熟者ですが、今回いっそうマイホームであるスタッフワークの愛おしさを再認識したので、何かあればぜひお気軽にお声がけいただけたなら幸いです。
舞台、制作、衣装、小道具、メイク、宣伝美術、やります。
これは昔作ったチラシ。神がかり的に絵の上手い先輩がイラストを描き下ろしてくれました。そのおかげでなんとかなってるフシはある。

そして、役者ですが、今後ともワークショップなどなど積極的に参加していきたい所存です。今回つかんだ感覚を忘れないように。

誰かのためとか、自分の居場所のためとか、そうではなくシンプルな演劇の楽しさを思い出させていただけました。ちょっと、憑き物がおちたかな。

そう思うと、マジでここまでの全てが自分に都合の良い夢だった気がしてきますが、こんなにも沢山の方に見守っていただけて、そんなことを思うのはあまりにも失礼ですね。

言葉は尽きないですが、この気持ちが冷めないうちに文字起こしすることができてよかった。
本当にこの3ヶ月間、あまりにも多くのものをいただくことができました。忘れないように、ここに書き留めておきます。

あと僭越ながらいただいたチケットバック等々はぜんぶ観劇に使うと決めているので、各位は本当にお気軽にお声がけください。あなたの扱いで観に行きます。

本当に、本当にありがとうございました。
またどこかで!

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