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(無題)

「つまり」、という接続詞をマーカーで塗るのは仕事。

「り」だけが次の行の頭にあり、「つま」が前行の行末にあった。
そこを塗るとき、「妻」のことを考えて胸が苦しくなる。
もう、病気…。

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午後、仕事で銀行に行ったついでに、今月の「6」と、先日催促された「101」のうちの「40」とを「妻」の口座に振り込む。現金は目や手に触れることなく、ただ画面の数字が変わるだけなのだが、なんか、とっても悲しい気分になる。(「101」については、残り「31」。)

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前にも書いた鷲田清一さんの文章。「他者を理解するということ」。

(前略)
 ということは、他者の理解においては、同じ想いになることではなく、自分にはとても了解しがたいその想いを、否定するのではなくそれでも了解しようと思うこと、つまり、そのわかろうとする姿勢にこそ他者はときに応えるということである。そして相手には、そのなんとかわかりたいという気持ちそのものが、かろうじて、しかし確かに、伝わるのだ。

鷲田清一さん「他者を理解するということ」

こないだのカウンセリングでもじゃ(カウンセラー)に話したが、鷲田さんのこの文章、とても感じるところがあるんだけど、でも、うちの場合、「これ以前」の問題なんだよなぁ…。

つまり、言葉を受け取ってくれたという感触のほうが、主張を受け入れてくれたということよりも意味が大きい。言っていることが認められたというよりも、言った言葉が、たとえ間違っていても、しかしとりあえずそのまま受け入れられた、それがそれとして肯定されたという感触が大切なのだと思う。

鷲田清一さん「他者を理解するということ」
(上の引用部分の続き)

うちは(お金の催促など事務的な連絡を除いては)ほゞ完全なる没交渉。いじめや虐待の中で一番つらいのがネグレクトだというのはまったくだと思う。

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夕方、1時間休みを取って早く帰ってきた。
今週もまた「完走できなかった」感じ。
1週間、仕事で(職場で?)疲れ切っただけでなく、出勤の最中からずっと「家」のこと、息子のこと、「死」のことなど考えるので、それも疲れる理由かと思う。(そして、逆に、早く帰ってそれらについて正面から向き合って、腰を据えて考えたい気持ち(≓noteを書くこと)もするので。)

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ヘッダーの写真は、今日、お昼を食べそびれてしまっていたので、14時頃、銀行に出た際にその近くで買ったお弁当。400円!