第5話「静かな調べ」- 25歳の聴覚障害を持つバイオリニストのお話
静寂。
そして、微かな振動。
心臓の鼓動。
私は目を閉じた。
「準備はいいですか?」
私の問いかけに、目の前の若い女性がゆっくりと頷いた。
今日の取材相手は、佐々木美月さん。25歳の聴覚障害を持つバイオリニストだ。
美月さんは、静かにバイオリンを構えた。
弓が弦に触れる。
目に見えない音が、空間を満たしていく。
私の体が、微かに共鳴する。
美月さんの演奏が始まった。
目を閉じたまま弾く姿は、まるで別世界の住人のよう。表情が、指の動き、体の揺れが、音を物語る。
曲が終わると、美月さんはゆっくりと目を開けた。
「素晴らしい演奏でした」
私は手話を交えながら伝えた。美月さんは照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
彼女の声は、少し独特な響きを持っていた。
「佐々木さん、いつからバイオリンを?」
その質問に、美月さんは少し考え込んだ。
「5歳の時です」
彼女は、ゆっくりと話し始めた。
「私が生まれつき聴覚障害だと分かったとき、両親はとても心配したそうです」
美月さんの表情が、柔らかくなる。
「でも、音楽が好きだった両親は、『音楽の素晴らしさを伝えたい』と思ったんです」
「それで、バイオリン?」
「はい。振動を感じやすいからです」
美月さんは、愛おしそうにバイオリンを見つめた。
「最初は、ただ弦の振動を感じるだけでした。でも、それが不思議と心地よかったんです」
彼女の言葉に、私は聞き入った。
「先生は、床に大きなスピーカーを置いて、私の足の裏に音を伝えてくれました」
美月さんは、懐かしむように微笑んだ。
「そうやって、少しずつ音の世界を学んでいきました」
「大変だったでしょう?」
その問いに、美月さんは静かに頷いた。
「はい。挫折しそうになったこともたくさんありました」
彼女の目に、過去の苦悩が浮かぶ。
「でも、諦めなかった。両親や先生、そして音楽仲間に支えられて、ここまで来ることができました」
その言葉に、私は中村船長の言葉を思い出していた。
『夢は、諦めなければ必ず叶う』
「佐々木さんにとって、音楽とは何ですか?」
その質問に、美月さんは少し考え込んだ。
「音楽は...私の声です」
「声?」
「はい。私の思いや感情を、最も自由に表現できるものです」
美月さんは、静かに続けた。
「聴覚障害があるからこそ、音楽に込められた感情や物語をより深く感じ取れるんです」
その言葉に、私は深く頷いた。
「演奏中は、どんな風に感じているんですか?」
美月さんは、少し照れくさそうに微笑んだ。
「それは...まるで海の中を泳いでいるような感覚です」
「海の中?」
「はい。体全体で音の波を感じて、その流れに身を任せるんです」
その表現に、私は中村船長の「海は人生そのもの」という言葉を思い出した。
「時には大きな波に飲み込まれそうになることもあります。でも、その中で自分の音を奏で続ける」
美月さんの言葉が、心に響く。
「それは、人生そのものかもしれません」
私は思わずペンを走らせた。
「佐々木さんは、困難にどう立ち向かってきたんですか?」
その質問に、美月さんは真剣な表情を浮かべた。
「ポジティブに考えることですね。『できないこと』ではなく、『どうすればできるか』を考える」
彼女の言葉に、力強さを感じた。
「それに、周りの人々の支えがあったから。一人じゃない、って思えたから頑張れました」
その言葉に、私はこれまで取材してきた人々のことを思い出していた。
灯台守の佐伯さん。
シングルマザーの佐藤さん。
観光船の船長中村さん。
みんな、それぞれの方法で困難に立ち向かい、夢を追い続けてきたのだ。
「佐々木さん、これからの夢は何ですか?」
美月さんは、少し考えてから答えた。
「もっと多くの人に、音楽の素晴らしさを伝えたいです。特に、私と同じように障害を持つ子どもたちに」
彼女の目が、強い意志を宿して輝いていた。
「音楽は、言葉を超えた共通言語。それを通じて、人々の心を繋げたいんです」
その言葉に、私は深く感銘を受けた。
「素晴らしい夢ですね」
美月さんは、照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、まだまだ道は長いです」
「でも、きっと叶うはずです」
私は、確信を持って言った。
「佐々木さんの音楽には、人々の心を動かす力がある。それは、私にもはっきりと伝わりました」
美月さんの目に、涙が光った。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、本当に嬉しいです」
静寂が、再び部屋を包む。
けれど今度は、その静寂が暖かく感じられた。
「もう一度、演奏していただけますか?」
私の問いかけに、美月さんは嬉しそうに頷いた。
再び、バイオリンが構えられる。
弓が弦に触れる。
目に見えない音が、空間を満たしていく。
今度は、美月さんの思いが、より鮮明に伝わってくるようだった。
夢への情熱。
困難を乗り越えてきた勇気。
そして、音楽への深い愛。
それらすべてが、美しい旋律となって響いていた。
演奏が終わると、美月さんはゆっくりと目を開けた。
「佐々木さん、本当にありがとうございました」
私は、心からの感謝を込めて伝えた。
「こちらこそ、ありがとうございます。私の話を聞いてくださって」
美月さんの笑顔が、部屋を明るく照らしているようだった。
帰り際、美月さんがこう言った。
「音楽は、静寂の中にこそ生まれるんです。だから私は、この静寂を恐れない」
その言葉に、私は強く頷いた。
静寂。
そして、微かな振動。
心臓の鼓動。
私は深呼吸をした。
目には見えないけれど、確かに存在する音の世界。
そこに、新たな可能性を感じていた。
今日の取材は、私に「聴く」ことの本当の意味を教えてくれた。
音だけでなく、心で聴くこと。
そんな、学びの一日だった。