第4話「夢の航路」- 50歳の元漁師、観光船の船長のお話
潮風が頬をなでる。
カモメの鳴き声が響く。
波が岸壁に打ち寄せる音。
私は深呼吸をした。塩気を含んだ空気が肺に染み渡る。
「やぁ、待たせたね」
声の主は、がっしりとした体格の男性だった。日に焼けた肌に、優しい笑顔。
「いえいえ、私も今来たところです。本日はよろしくお願いします、中村船長」
「こちらこそ。さぁ、乗ってくれ。話は船の上でしよう」
中村辰也さん、50歳。元漁師で、現在は観光船の船長だ。今日は彼の人生ストーリーを聞くために、この港町にやってきた。
船に乗り込むと、エンジンがかかる。
ゴォーという低い唸り声。
少しずつ動き出す船体。
「さて、どこから話そうかな」
舵を取りながら、中村さんが口を開いた。
「私はね、この町で生まれ育ったんだ。物心ついた時から、海が生活の一部だった」
穏やかな表情で、中村さんは続ける。
「父も祖父も漁師でね。自然と私も漁師になった。でも...」
その「でも」に、私は身を乗り出した。
「25年前、大きな転機が訪れたんだ」
中村さんの目が、遠くを見つめる。
「ある日の嵐の夜。いつもより波が高かった。それでも、漁に出た」
船は静かに港を出て、広い海原へと進んでいく。
「そしたらね、遭難した観光船を見つけたんだ」
「え?」
「必死で救助した。幸い、全員無事だった。でもね...」
中村さんは深いため息をついた。
「あの時、観光客の怯えた顔を見てね。『海って、こんなに怖いものなのか』って思ったんだ」
波を切って進む船。その揺れが、中村さんの言葉に重なる。
「それから考えるようになったんだ。『海の美しさや素晴らしさを、もっと多くの人に知ってもらいたい』って」
「それで観光船の船長に?」
「ああ。でもね、簡単じゃなかったよ」
中村さんは、懐かしむように笑った。
「漁師から観光船の船長になるなんて、周りは反対した。『何を考えてるんだ』って」
風が強くなる。
船の揺れが大きくなる。
でも、中村さんの手つきは変わらない。
「でもね、あきらめなかった。少しずつ、一歩ずつ前に進んだ」
その言葉に、私は思わずペンを走らせた。
「資格を取って、経験を積んで。そうしてやっと、この船の船長になれたんだ」
中村さんの顔に、誇らしげな表情が浮かぶ。
「今じゃ、毎日がわくわくするんだ。お客さんの笑顔を見るのが、何よりの喜びさ」
船は、美しい入り江に差し掛かっていた。
「ほら、見てごらん」
中村さんが指さす方向に目を向けると、息をのむような景色が広がっていた。
エメラルドグリーンの海。
白い砂浜。
そして、青い空に浮かぶ入道雲。
「これが、私が人々に見せたかった景色なんだ」
中村さんの声が、感動に震えていた。
「すごい...本当に美しいです」
私の言葉に、中村さんは満足げに頷いた。
「でもね」
中村さんが、真剣な表情で私を見つめた。
「海は美しいけど、同時に怖いものでもある。その両面を知ってもらうのも、私の仕事なんだ」
船は、ゆっくりと方向を変える。
「だから、安全には人一倍気を付けてる。あの日の教訓を、決して忘れないようにね」
中村さんの言葉に、重みを感じた。
「中村さんにとって、海とはどんな存在なんですか?」
私の質問に、中村さんは少し考え込んだ。
「そうだなぁ...」
中村さんは、遠くの水平線を見つめながら言葉を紡ぎ出した。
「海は...人生そのものかもしれないな」
「人生、ですか?」
「ああ。時に穏やかで、時に荒れ狂う。でも、その中で自分の舵を取り続けなきゃいけない」
その言葉に、私は深く頷いた。
「人生も、海を航海するのと同じさ。目的地を決めて、そこに向かって進む。でも、時には予期せぬ嵐に見舞われることもある」
船は、再び港に向かって進み始めていた。
「そんな時は、しっかりと舵を握り、波を乗り越えていく。そうやって、少しずつ前に進んでいくんだ」
中村さんの言葉が、私の心に深く刻まれる。
「それに、航海で大切なのは、一人じゃないってことさ」
「一人じゃない?」
「ああ。仲間がいる。家族がいる。そして、時には思わぬ人が助けてくれることもある」
港が、少しずつ近づいてくる。
「人生も同じさ。周りの人々に支えられて、自分の夢に向かって進んでいく」
その瞬間、私は自分の取材してきた人々のことを思い出していた。
灯台守の佐伯さん。
シングルマザーの佐藤さん。
そして、私自身と母のこと。
みんな、それぞれの「海」で、自分の「船」を操ってきたのだ。
「中村さん、素晴らしいお話をありがとうございます」
私の言葉に、中村さんは照れくさそうに笑った。
「いやいや、つまらない話を聞いてくれてありがとう」
船が、ゆっくりと港に入っていく。
「ねぇ、中村さん」
「ん?」
「これからの夢は、何ですか?」
その質問に、中村さんは満面の笑みを浮かべた。
「それはね...」
中村さんは、深呼吸をして言った。
「もっと多くの人に、海の素晴らしさを知ってもらうこと。そして、この町を、海と共に生きる素敵な場所として残していくことさ」
その言葉に、私は心を打たれた。
「素敵な夢ですね」
「ああ。でも、簡単じゃない。これからも、きっと荒波はあるだろう」
中村さんは、静かに続けた。
「でもね、大丈夫さ。この25年間で学んだことがある」
「何ですか?」
「夢は、諦めなければ必ず叶うってことさ」
船が、静かに港に到着した。
エンジンが止まる。
波の音だけが響く。
そして、カモメの鳴き声。
「さぁ、着いたよ」
中村さんが、私に手を差し伸べた。
「ありがとうございました」
私は、感謝の気持ちを込めて中村さんの手を握った。
岸に降り立つと、中村さんが最後にこう言った。
「君もね、自分の『海』で、しっかりと舵を取ってくれ。きっと、素晴らしい航海になるはずさ」
その言葉に、私は強く頷いた。
潮風が頬をなでる。
カモメの鳴き声が響く。
波が岸壁に打ち寄せる音。
私は深呼吸をした。
塩気を含んだ空気の中に、新しい希望を感じた。
今日の取材は、私自身の人生の航路にも、新しい風を吹き込んでくれた。
そんな、特別な一日だった。