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短編小説 「海辺の絆」
クリスは窓の外を見つめていた。灰色の空が低く垂れ込め、遠くの海岸線がかすんで見えた。12歳の少年の心は、今日の釣り旅行への期待と不安で揺れていた。
「準備はいいか?」
父親のジョセフの声に、クリスは我に返った。父の姿を見て、少年の胸に複雑な思いが去来する。普段はスーツ姿の父が、今日はジーンズにフランネルシャツ。まるで別人のようだ。
「うん」とクリスは小さく答えた。
車に乗り込むと、沈黙が二人を包んだ。ラジオから流れる天気予報が、その静寂を埋めていく。
「今日は曇りのち晴れ。午後には気温も上がるでしょう」
アナウンサーの声を聞きながら、ジョセフは思わずため息をついた。息子との時間を作ろうと決心したものの、どう接していいのか分からない。仕事に追われる日々の中で、いつの間にか息子との距離が開いていた。
海岸に到着すると、二人は黙々と釣り道具を準備し始めた。ジョセフは、自分の父親と釣りに来たあの日を思い出していた。
「クリス」ジョセフは声をかけた。「釣り竿の持ち方、覚えてるか?」
クリスは首を横に振った。
「よし、じゃあ教えよう」
ジョセフは息子の後ろに立ち、優しく手を添えて釣り竿の持ち方を教えた。「こうやって、親指で糸を押さえて...そうそう、その調子だ」
クリスは父の温もりを感じながら、なんとなくぎこちない笑顔を浮かべた。
二人は堤防に腰を下ろし、海を見つめながら糸を垂らした。潮の香りが鼻をくすぐる。
「昔な」ジョセフは静かに話し始めた。「おじいちゃんと一緒に、ここによく来たんだ」
クリスは驚いて父を見上げた。父が自分の子供時代の話をするのは珍しかった。
「そうなの?」
「ああ。仕事で忙しかったおじいちゃんが、休みの日に僕を連れてきてくれたんだ。最初は気まずかったけど...」
ジョセフは遠い目をしながら続けた。「でも、一緒に過ごすうちに、おじいちゃんのことがよく分かるようになってな。仕事のこと、家族のこと、色んな話をしたよ」
クリスは黙って聞いていた。父の声に、懐かしさと後悔が混ざっているのが分かった。
「その時、おじいちゃんが教えてくれたんだ。『人生で大切なのは、待つことを学ぶことだ』ってな」
「待つこと?」クリスは首を傾げた。
ジョセフはうなずいた。「ああ。釣りは待つことの連続だ。でも、その待つ時間が大切なんだ。考えを整理したり、周りのものに気づいたり...」
そう言いながら、ジョセフは息子の顔をまじまじと見た。クリスの目には、好奇心の光が宿っていた。
「そうか」ジョセフは小さくつぶやいた。「俺も、待つことを忘れていたんだな」
その時、クリスの釣り竿が大きく揺れた。
「わっ!」クリスは驚いて立ち上がった。
「落ち着け、クリス!」ジョセフは息子の背中に手を当てた。「ゆっくりリールを巻くんだ。急がずに」
クリスは必死に父の指示に従った。糸は左右に激しく揺れ、時に海面から跳ね上がる魚の姿が見えた。
「でかいぞ!」ジョセフは興奮気味に叫んだ。「諦めるな、クリス!」
しばらくの格闘の末、ついに大きな黒鯛が水面に姿を現した。
「やった!」クリスは歓声を上げた。
ジョセフは素早く網を差し出し、見事な黒鯛を掬い上げた。
「すごいじゃないか、クリス!」ジョセフは息子を抱きしめた。「立派な黒鯛だぞ」
クリスは、久しぶりに感じる父の抱擁に、少し戸惑いながらも嬉しさを感じていた。
「パパ...」クリスは小さな声で呟いた。「ありがとう」
ジョセフは息子の頭を優しく撫でた。「いや、パパこそありがとう。大切なことを思い出させてくれた」
二人は黒鯛を前に、誇らしげに笑みを交わした。潮風が頬をなでる。
その日の夕暮れ時、車で帰る道すがら、ジョセフは決意を固めていた。これからは、仕事だけでなく家族との時間も大切にしよう。待つことの価値を、もう一度学ぼう。
「ねえ、クリス」ジョセフは運転しながら声をかけた。
「なに?」
「また釣りに行こうか。今度は、おまえの好きな場所で」
クリスの目が輝いた。「うん!」
車窓の外では、オレンジ色に染まった空が、新たな始まりを予感させていた。父と息子の間に、確かな絆が芽生え始めていた。
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