第2話「春を待つ心」- 35歳のシングルマザーのお話
凛とした冬の空気が頬をかすめる。
枯れ葉の舞う公園。
遠くに聞こえる子どもたちの声。
私は深呼吸をした。冷たい空気が肺に染み渡る。
「ねえ、お母さん見て!」
元気な声に振り返ると、ブランコから手を振る少女の姿があった。
「上手だね、美咲!」
少女の母親が笑顔で応える。その横顔に、どこか寂しさが滲んでいるような気がした。
今日、私が取材に来たのは、この35歳のシングルマザー、佐藤梓さんだ。
「佐藤さん、お時間をいただき、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。こんな私の話でよければ」
梓さんは少し照れたように微笑んだ。
「美咲ちゃん、おいくつですか?」
「もうすぐ6歳です。来年から小学生なんです」
梓さんの目が優しく輝いた。
「大変だと思いますが、シングルマザーとして頑張っていらっしゃる姿に感銘を受けます」
私の言葉に、梓さんは少し驚いたような表情を見せた。
「大変...ですか?そうですね、確かに大変なこともあります。でも、美咲がいるから頑張れるんです」
梓さんは、遊具で遊ぶ美咲ちゃんを見つめながら話し始めた。
「私が美咲を妊娠したとき、まだ29歳でした。相手の男性とは結婚の約束をしていたのですが...」
梓さんの声が少し震えた。
「妊娠5ヶ月のとき、彼は突然姿を消してしまったんです」
「そうだったんですか...」
私は言葉を失った。梓さんの目には、悲しみの色が浮かんでいた。
「最初は絶望しました。でも、お腹の中で育つ命を感じるたび、不思議と勇気が湧いてきたんです」
梓さんは静かに微笑んだ。
「美咲が生まれたとき、この子と一緒に生きていこう、そう決心しました」
風が吹き、梓さんの長い髪が揺れる。
「でも、現実は厳しかったですね。仕事と育児の両立、経済的な不安...毎日が戦いでした」
「どうやって乗り越えてこられたんですか?」
梓さんは少し考え込んだ。
「そうですね...一つ一つ、小さな目標を立てて。今日を乗り越えよう、今週を乗り越えよう、そんな風に」
「小さな目標...」
私はその言葉をノートに書き留めた。
「それと、周りの人たちの支えがあったからこそです。両親、友人、職場の人たち...みんなが少しずつ助けてくれました」
梓さんの表情が明るくなる。
「特に、ここの児童館のスタッフの方々には本当にお世話になりました。仕事で遅くなるときは、美咲を預かってくれたり...」
「地域のつながりって大切ですね」
「本当にそうです。一人で抱え込まないこと。それが私の学んだ大切なことの一つです」
そのとき、美咲ちゃんが駆け寄ってきた。
「お母さん、お腹すいた〜」
「そうね、もうお昼の時間ね」
梓さんは優しく美咲ちゃんの頭を撫でた。
「少し休憩しましょうか」
私は頷いた。三人で近くのベンチに座り、梓さんが用意してきたおにぎりを頬張る。
「美味しい!」
思わず声が出た。
「ふふ、ありがとうございます。美咲と一緒に作ったんですよ」
「へぇ、美咲ちゃんお料理上手なんだね」
美咲ちゃんは嬉しそうに頷いた。
「ねえねえ、お母さんとね、将来はパン屋さんを開くの!」
「そうなの?素敵な夢だね」
私は美咲ちゃんに微笑みかけた。
「実は...」梓さんが少し恥ずかしそうに言った。「私、今、製パンの勉強をしているんです」
「え?」
「美咲が小学校に上がったら、少し時間ができるかなって。それで、将来への準備を始めました」
梓さんの目が力強く輝いていた。
「毎晩、美咲が寝た後に勉強しています。大変ですけど、夢に向かって一歩ずつ進んでいる気がして...幸せなんです」
その言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。
「佐藤さん、素晴らしいです。夢に向かって頑張る姿、本当に感動します」
梓さんは照れくさそうに笑った。
「でも、まだまだ先は長いんです。パン屋を開くには資金も必要だし...」
「それでも、一歩ずつ近づいているんですよね」
「はい。小さな一歩でも、積み重ねれば大きな距離になる。そう信じています」
美咲ちゃんが梓さんにもたれかかる。母と娘の愛情に満ちた光景に、私は思わずシャッターを切った。
「佐藤さん、同じようにシングルマザーとして頑張っている人たちに、何かメッセージはありますか?」
梓さんはしばらく考え込んだ。
「うーん...そうですね」
梓さんは美咲ちゃんを優しく抱きしめながら言葉を紡ぎ出した。
「完璧を求めすぎないこと。自分を責めすぎないこと。そして、助けを求めることを恥じないこと」
梓さんの声は静かだが、力強かった。
「子育ては本当に大変です。でも、子どもの笑顔は何にも代えがたい宝物。その宝物のためにも、自分を大切にしてほしいんです」
「自分を大切に...」
「はい。疲れたときは休む。甘えたいときは甘える。そうやって自分をいたわることで、子どもにも優しくなれる。それが私の経験から学んだことです」
梓さんの言葉には、深い愛情と経験に裏打ちされた重みがあった。
「そして、希望を持ち続けること。今は冬かもしれない。でも、必ず春は来ます」
梓さんは空を見上げた。
「私たちの人生にも、きっと春が来る。そう信じて、一歩ずつ前に進んでいく。それが、私の"春を待つ心"なんです」
その瞬間、冷たい風の中に、かすかな春の香りを感じた気がした。
「佐藤さん、本当にありがとうございました。とても心に響くお話でした」
梓さんは優しく微笑んだ。
「いいえ、こちらこそ。こんな私の話を聞いてくださって」
美咲ちゃんが私に近づいてきた。
「ねえねえ、お姉さんもパン食べに来てね。私たちのお店できたら」
「うん、絶対行くよ。楽しみにしてるね」
私は美咲ちゃんの頭を優しく撫でた。
帰り際、振り返ると、梓さんと美咲ちゃんが手を振っていた。二人の姿が、夕暮れの公園に溶け込んでいく。
凛とした冬の空気が頬をかすめる。
枯れ葉の舞う公園。
遠くに聞こえる子どもたちの声。
そして、確かに感じる春の足音。
私は深呼吸をした。冷たい空気の中に、希望の温もりを感じた。今日の取材は、私自身の心も温めてくれた。そんな素敵な一日だった。