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第1話「闇を照らす灯り」- 80歳の元灯台守の男性のお話


海風が頬をなでる。
潮の香りが鼻をくすぐる。
遠くに聞こえる波の音。

私は深呼吸をした。ここに来るたびに、こうして空気を胸いっぱいに吸い込む。それだけで、心が落ち着くような気がする。

目の前に広がる太平洋。その向こうには、水平線が果てしなく続いている。空と海が溶け合う境界線は、どこまでも美しい。

「やっぱり、ここからの眺めは格別だねぇ」

ゆっくりとした足取りで近づいてきた老人の声に、私は我に返った。

「ええ、本当に素晴らしいです」

私は微笑みながら、老人の隣に並んだ。白髪まじりの髪を風になびかせ、しわだらけの顔に穏やかな表情を浮かべる老人。その姿は、まるでこの海岸の風景と一体化しているかのようだった。

「佐伯さん、今日はお時間をいただき、ありがとうございます」

「いやいや、こちらこそ。わしのような年寄りの話に付き合ってもらって」

佐伯春男さん、80歳。この地域で40年以上にわたって灯台守を務めてきた人物だ。今日、私はその佐伯さんの人生ストーリーを聞くために、この海辺の町にやってきた。

「ところで、君はどうしてわしみたいな者の話を聞きたいと思ったんだい?」

佐伯さんの質問に、私は少し考え込んだ。

「人それぞれの人生には、きっと誰にも語れない物語があると思うんです。その中には、きっと私たちが学べることがたくさん詰まっているはずだと」

「ほう…なるほどね」

佐伯さんは、にっこりと笑った。その笑顔には、何か深い意味が込められているような気がした。

「じゃあ、わしの話を聞く準備はできたかい?」

私はうなずいた。ノートとペンを手に取り、佐伯さんの言葉に耳を傾ける準備を整えた。

佐伯さんは、ゆっくりと話し始めた。

「わしがこの町に来たのは、もう60年も前のことだよ。当時は若くて、何も分からない青二才だった」

佐伯さんの目は、遠い過去を見つめているようだった。

「灯台守になったのは、正直なところ、偶然とも言えるんだ。故郷を離れ、仕事を探してさまよっていたわしに、ある人が声をかけてくれてね。『若いの、灯台守をやってみないか』って」

「その時、どう思われましたか?」佐伯さんの表情を観察しながら、私は尋ねた。

「正直、最初は戸惑ったよ。灯台守? なんだそれって」佐伯さんは軽く笑った。「でも、その人の目に映る情熱に、なぜかわしは引き込まれてしまったんだ」

佐伯さんは、ゆっくりと歩き始めた。私もそれに合わせて歩を進める。

「灯台守の仕事は、想像以上に大変だった。昼夜を問わず灯台の光を絶やさないこと。嵐の夜も、灯台を守り続けること。孤独と闘いながら、海の安全を見守り続けること」

佐伯さんの声には、過去の苦労が滲み出ていた。

「でもね」佐伯さんは立ち止まり、私の目をまっすぐ見つめた。「その大変さの中に、わしは人生の意味を見出したんだ」

「人生の意味、ですか?」

「そうさ。灯台の光は、闇夜の海を照らす。それは、希望の象徴なんだよ。どんなに暗い夜でも、あの光があれば、船は安全に港へとたどり着ける」

佐伯さんの言葉に、私は深く考え込んだ。灯台の光。それは単なる明かりではない。誰かの命を、未来を、守る光なのだ。

「君はね、人の話を聞くのが仕事なんだろう?」

突然の質問に、私は少し驚いた。

「はい、そうです」

「それは、わしたち灯台守と同じようなものだと思うんだ」

「どういうことでしょうか?」

佐伯さんは、優しく微笑んだ。

「人の話を聞くこと。それは、その人の人生に光を当てることじゃないかな。誰もが、自分の人生の中で迷うことがある。でも、誰かが耳を傾け、その人生に光を当ててくれれば、きっと道は見えてくる」

その言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。

「わしがこの仕事を続けてこられたのは、この仕事の意味を見出せたからさ。君も、自分の仕事の本当の意味を見つけられるといいね」

佐伯さんの言葉は、まるで私の心の奥底に響いてくるようだった。

「ところで」佐伯さんが、くすくすと笑いながら言った。「灯台守の仕事には、もう一つ大切な役割があるんだよ」

「それは何ですか?」

「恋人たちの見張り役さ」

「え?」

「この灯台の周りはね、カップルたちの人気スポットなんだ。夜になると、たくさんの若者たちが訪れる。わしは、そんな彼らの姿を見守りながら、自分の若かった頃を思い出すんだよ」

佐伯さんの目が、懐かしそうに輝いた。

「愛する人と一緒に過ごす時間。それは、人生の中でもっとも輝く瞬間の一つだ。わしは、そんな瞬間を見守る特等席にいられるんだよ」

私は思わず笑みがこぼれた。佐伯さんの言葉には、人生の機微が詰まっている。それは、まるで一つ一つが宝石のようだ。

「佐伯さん、今の若い人たちに伝えたいことはありますか?」

佐伯さんは、しばらく考え込んだ。

「うーん、そうだなぁ…」

佐伯さんは、ゆっくりと歩き出した。私もそれに付き添う。

「若い人たちにはね、自分の"灯台"を見つけてほしいんだ」

「"灯台"ですか?」

「そう。人生には、嵐の夜のように辛い時期がある。でも、そんな時でも前を向いて進めるような、自分だけの"灯台"を見つけてほしい」

佐伯さんの言葉に、私は深く頷いた。

「それは、大切な人かもしれない。夢や目標かもしれない。はたまた、自分の信念かもしれない。何でもいい。自分を導いてくれる光があれば、どんな困難も乗り越えられる」

佐伯さんは、遠くを見つめながら続けた。

「そして、時には自分が誰かの"灯台"になることも大切さ。誰かの道を照らす存在になれば、自分の人生にも新しい意味が生まれるからね」

その言葉に、私は自分の仕事のことを考えた。人々の人生の物語を聞き、それを本にまとめる。それは、まさに誰かの人生に光を当てる作業なのかもしれない。

「ありがとうございます、佐伯さん。とても深いお話を聞かせていただきました」

佐伯さんは、優しく微笑んだ。

「いやいや、わしこそありがとう。久しぶりに昔を思い出して、楽しかったよ」

夕日が海面を赤く染め始めていた。佐伯さんと私は、しばらくその美しい光景を眺めていた。

「さて、そろそろ灯台の準備をしないとね」

佐伯さんが立ち上がった。

「今日も、誰かの道を照らす時間だ」

その背中を見送りながら、私は深く考え込んでいた。人生の物語作家として、私もまた誰かの人生に光を当てる存在でありたい。そう強く思った瞬間だった。

海風が頬をなでる。
潮の香りが鼻をくすぐる。
遠くに聞こえる波の音。

そして、闇が迫る海を照らす、灯台の光。

私は深呼吸をした。この町に来てよかった。そう心から思える、特別な一日だった。



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Moko-Anne
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