推すという感情について

推している人間から「友達だよな」という問題が突きつけられた。これを機に僕の人生をかけてこの問題に取り組むべく、日記としてのいつもの私ではなくオタクとしてのひねくれた僕の考えをここに残す。

はじめに

僕が推しという言葉を意識し始めたのは2010年、当時AKB48というアイドル達がお茶の間のテレビを席巻していた(といっても過言ではない)時期だ。僕はその時どちらかというとアンチ気質だったきらいがあった。やれ顔が一緒だ、やれ歌がうまくないだ、よくある悪い方の長いものに巻かれていた。そんな時一人の友人から一枚のCDを貰った。

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「だまされたと思って聞いて欲しい!」。教室で僕が受け取るのを見ていた周りの反応は様々だった。可愛い、気持ち悪い、飽きないね、など。いろんな声が聞こえたのを今でも覚えている。僕も最初は戸惑った。しかし聴き終わってMV見ながらジャケットに映る左から二番目「松井珠理奈」を見たとき、今までにない感情が沸き起こった。今ではそれが最初の「推したい」と思った瞬間だったんだと。

これをきっかけに僕はあらゆるジャンルのアイドルにのめりこみ、15歳の時に初めて生のアイドルに会いに行った。HKT48100回公演記念日だ。結論から言うと感動した。ステージに立つ女の子たちの眩しさに憧れてしまった。ここから明確に「推し」ということばを自覚し、使いはじめた。

「推し」の定義とは?

では推しの定義とは?となる。ここで終わってはただのオタクの人生日記で終わってしまう。取り敢えず僕の中のブレない意見を賛否両論込みで聞いて欲しい。

「推しとは偶像であって隣人ではない。推しの定義を好み(恋愛感情)のタイプで語る人間とは分かり合えない。」

異論は認める。というか僕が異端なのかもしれない。

この理由を説明していく。推しへの思いが恋愛感情の延長線上になる気持ちは実際分からなくはない。なぜなら”好き”というカテゴリーの中に間違いなく”推したい”は入っているからだ。ではなぜ否を突きつけるかというと、そもそも恋愛感情というものは互いのパーソナルスペースが触れ合う距離で互いを知ることから始まるのであって、アイドルならステージ、Vtuberなら画面の奥といったように切り取られた空間でしか出会えない相手に疑似恋愛感情を抱くことはあまりにも一方通行で不毛であると考えるからだ。(投稿主の偏見)

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上記図を見てほしい。左から、僕ら(=一人称。以降僕ら)、僕らから見た相手(上段:恋愛対象 下段:推し)、相手(=二人称。上段:恋愛対象 下段:推し)と仮定する。上段は男女の恋における関係を、下段は推しと推されの関係を表したものだ。

例えば上段の一番右を同じクラスの気になるAさんだとしよう。日ごろから見ているAさんは自分ではない何かを演じる必要がないため他から見ても目に入った情報と本人のズレというのは比較的少ないと考えられる。一方、僕らオタクが推しを見る時、好き以外の感情(尊敬、感心、羨望など)を含めたフィルターを通して見る筈だ。メタ的な話にはなるが、この時点で推し本人を等身大で見ることは『不可能』なのだ。逆もまた然り、推しも人間である。必ずしもオタクの考えた通りのカンペキ超人なんかではない。それでも自分じゃない「推されるワタシ」をロールプレイングしようと身を削って、心を削って、血を吐きながら僕らの前に立ってくれる。自分じゃないみんなの憧れを演じてくれる。

それを、綺麗な部分だけ見て好きだけ押し付けることがどれだけ推しへ配慮を欠いた行為か、どれだけ自分よがりな感情なのか。だからこそ「推し」は偶像であっても隣人にはなりえない、「推したい」は恋愛感情ではなく偶像崇拝であるべきなのだと僕は思う。

だから僕は好きではなくこう伝える。

「僕はあなたのオタクです。」

・・・・・最後に

色々言っちゃいましたがあくまでこれは異端な僕の独り言。文としても稚拙。自慰行為。異論の嵐だろう。特に界隈にいる各方面から怒られそうだ。気になって見に来て気分を害された方、本当に申し訳ありません。

だがそんなもんは知らん!言いたいことを言わせてくれ!今日も空は青いし空気はうまい。うんちは茶色いし流せば消える。

そして今日も僕は推しに救われてます。あなたのオタクは今日も元気です。

おしまい

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