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mokko’s 物語 母との別れ

僕はプロになっていた友人と再会し、ユニットを組んで活動を始めますが、
一向にライブをやる雰囲気にもならず、ユニットのはずがどんどん人が増えて
いき、バンド形態のようになっていったのです。

しかも

“俺はあの曲やりたい”
“もっとロック調がいいよね”

など僕の曲をやるはずが、どんどん僕がやりたい姿ではなくなっていき、
それと同時にやる気もなくなっていきました。

それと同時に練習に参加していないメンバーの悪口を言うようになり、

“あいつの演奏はここが悪い”
“どうも気に食わない”

などの話が次から次へと出てきて、

参加しないと悪口を言われるのではないかという恐怖が襲ってきていました。

人数が増えれば増えるほどその場から存在感を消す習性が僕にはあり、
目立たないよう、目立たないよう、とにかく参加するだけ参加しておくか
位の感じになっていきました。

そのままでは面白くなかったのですが、自分の曲をやるといっても仲間がいなかったので、
一人で活動するにも

歌は下手ですし、ギターも平凡、唯一あったのがメロディーの良さだけでは到底ファンなど作れないので、

流れに逆らわずといった感じで参加だけしていた感じになっていきました。

そんなバンド形態も、一人抜け、二人抜け、してまた知らない人が入るといった感じで
もうなんだかわからなくなっていたので、知らない間に消滅していった感じになっていきました。

“もっと自分が納得する音楽を作曲したい”

内なる声が心の中からの叫びでした。

そうこうしていると、母親から一通のメールが届きました。

“肺に影があるから再検査しないといけない”

といったメールで、影があるくらいでメールしてくることかな位に思っていた
ので、読んでそのままスルーしていました。

しかし、数か月して病院に緊急入院し、抗がん剤治療を受けて家に帰ってきた姿が
本当に衝撃で、

あの元気印がトレードマークの母親の髪の毛が抜け落ちている姿と歩くだけで息切れしている姿をみて僕は母親の弱った姿をみることができずに

数日顔を合わせることができませんでした。

本当に小さい頃から母親に人が集まって元気な姿しかみたことがなく、大好きだった背中が丸くなっていく姿を見たくなかったのです。

そうして、母から

“今度、愛知芸術劇場でコンサートがあるんだけど一緒に行かない?”

何故か母親と一緒にいる姿を人に見られるのが嫌で、高校以降は母親と一緒に出かけるのがなんか照れ臭くて断っていたのですが、

僕は一緒に行くことにしました。

母親の弱った姿を何か支えてあげたいと思ったので、一緒にでかけました。

クラシックのコンサートだったのですが、母親の横顔をみて、幸せそうにしている姿が妙に印象的で、終わった時には母親に何もできていなかったのを少し返せた気持ちになっていました。

そこからは抗がん剤治療の度に病室で苦しそうにする母親の姿を見て、介護をするようになり、父親の介護しているのも助ける日々になりました。

そんな中でも僕にだけは力を借りたくないと母親は気丈な姿を見せていましたが、
母との別れは突然やってきて、仕事中に嫁から連絡があり仕事から病院に直行した
5分後に息を引き取ったのです。

今でもあの光景だけは脳裏に焼け付いていて一生無くなることはないでしょう。

こうして僕は母の想いファンの方と叶えたくて、今もAIRCLOUDというBGMバンドで今日も音を奏でているのでした。


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