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短編小説「ラフマニノフピアノ協奏曲は何色に聞こえるか」

音階は五線譜に乗るオタマジャクシのように幅が均等なわけではないのだよ、と木戸はまるで世界の行く末を憂えているかのような顔で、ため息交じりに云った。
 ピアノは均等なはずだよ、と冷めて余計にまずくなった学食の安いコーヒーに顔をしかめながら、僕は答えた。木戸は、380円のカレーライスを目の前に、まるで西洋人のように、やれやれと首を振った。
 木戸が今日ずっとこんな調子なのは、2カ月前から付き合いだした近くの女子大の女に、昨夜フラれたからだ。今朝「世界が一気に色褪せたのだよ」とやけに仰々しい顔で云ってきた男に、講義中にもかかわらず僕は思わず「は?」と声を上げてしまった。
確かに彼の声は随分ともったりとした色をしていた。
 ピアノはそこが独特だな、だからあの打楽器は和音が完璧になるはずがないんだ、という木戸の眉間には、ピアノに親でも殺されたかのかというほど、深い皺が刻まれている。
 ラフマニノフのピアノ協奏曲、君にはどう感じるんだ、素晴らしいだろう!と以前ラッキョウと味噌ラーメンの親和性を突如語りだした時と同じ熱い目で、僕の前に携帯端末を突き付けてきたのは先週じゃなかったか、と思ったが云いはしなかった。
面倒な男なのだ、この木戸という男は。2か月で女に見限られるのも当然だ。カレーをあんな風にぐちゃぐちゃに混ぜるのもどうかと思う、僕は。
木戸は、聞いているのか?と右手をせわしなく耳に持っていく。声は相変わらず雨が降る直前の雲のような色をしている。
木戸とはこの大学で知り合った。入学してしばらく経って、いつも一人で行動する僕に彼が声をかけてきたのだ。
「君、全く聞こえないわけじゃないんだろう。ごまかしたって無駄だ。今も声をかけたら振り返ったじゃないか」
藍色のシュンとまっすぐ飛ぶ声の主は、パソコンテイカーと呼ばれる男だった。彼の仕事は、講義をリアルタイムでパソコンに打ち込むことだ。おかげで僕にも講師の言っていることが文字で読むことができる。
急に話しかけてきた、テクノカットのひょろりとした男が何を言っているのか、口の動きとニュアンスでわかった。
木戸は初めから不躾な男だった。
 僕の耳は生まれた時からほとんど機能をしていない。ただ、音を目で感じることができた。
僕には音が見えた。言葉の通り、音がまるで色のついた煙のように見えるのだ。そのせいで生まれてから保育園に預けられるまでは、聞こえていないということに親さえ気づかなかった。
木戸があまりにしつこいので、僕は家族と一部の人にしか言っていないそのことを、うっかり云ってしまった。思えば酒をのんでいた。
-僕は音が色で見える。
どうせ信じやしないだろうと、居酒屋の片隅で筆談に使っていたボールペンを放り、生ビールが半分ほど残ったジョッキを握った。
以前タブレット端末を真ん中に置き、ペンタブで手書きできるアプリを筆談に使おうと試みたが、酔うと動作がいつも以上に大きくなる木戸が、焼酎の入ったグラスを振り回しながらしゃべるので、即、紙に戻した。
さあ、笑うか、憐憫の眼差しを向けてくるか。どちらだって僕には構わない。自分の見える世界を他人にわかってもらおうだなんて、ハナから思っていない。
辺りをむくむくと流れる薄い色の空気の間から、突然原色の黄色、続けざまに赤や青の色の洪水がドッと押し寄せてきた。驚いてジョッキから口を離し、真正面の男を見やると、目が爛々と輝いていた。
もっと迅速にコミュニケーションを取りたいと、木戸が手話を覚え始めたのはそれから1か月程経ってだったろうか。隣に座りながら二人でチャットをしている時「君、手話は?」と聞かれ「嗜む程度は」と答えると、木戸はパソコンの画面からこちらに視線を向けて、なぜか漫画の悪役のように、にたりと笑ったのだった。
 木戸には色々な目に遭わされた。
遠慮を知らないこの男は、自分の好奇心にだけ従順で、様々な音を見せてはどんな色なのか、僕に説明させる。
 最悪だったのは、クラブに連れて行かれた時だった。両脇の大きなスピーカーから様々な色が乱射され、フロア中に充満し、うねりを打ち、飛び散り、跳ねていた。
 僕は5分も経たずに目を回し、トイレで吐いた。
翌日、学食のB定食を木戸に奢らせた。
本日ピアノを目の仇している木戸に、僕は、ピアノの和音も綺麗な色合いだけどな、と先日聞かされたラフマニノフの色を思い出しながら云った。
「君にはどんな美しい世界が見えているのだろう」
そう云った木戸の声は、先程より色が付き、軽やかに宙を舞った。
「僕には常に振動を感じる世界の方が、想像がつかないよ」
目に見えないものを“聞き分ける”とは一体どういう感覚なのか。
「君の世界を僕はもっと知りたいね。そんなわけでここに映画のチケットがある。一緒に行こうではないか」
見れば話題のディズニー映画の前売りチケットが二枚。
「切ないね。今日彼女の誕生日なんだっけ。あ、元ね」
僕は頬に流れる涙を指で表した。
「割勘だよ、君」
木戸はぶすりとした顔で、右手で作った輪と左手で作った輪を合わせる動作をしたが、声はいつもの藍色にほとんど戻っていた。
 映画の帰り道、天下のディズニーの新作を散々に酷評する木戸と僕がバンドを組んで、結局それが腐れ縁の始まりになるのだった。

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