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短編小説「変なおじさん」

思えば初めから違和感はあった。遺影の男は、耳上で刈りそろえられた白髪に、ネクタイなんか締めて、記憶よりも随分と真っ当そうに見えた。
 達郎がおじさんの訃報を受けたのは昨日の夜のことだった。おじさんはおじさんでも、このおじさんは、血の繋がらない、ただの近所のおじさんだ。実家を出た達郎は十年以上顔を合わせていない。
 勤めに出るような姿を見たことが無く、いつも近所にふらりといる壮年の男は、子どもながら不思議な存在だった。ボサボサの髪に白髪交じりの無精髭で、背を丸め、有名スポーツメーカーのサンダルでペタンペタンと歩いていた。見かける度、そちらに視線を持っていくのも緊張し、近づけばもう二度と家に帰れないのではないかと、幼い達郎はその存在に恐怖していた。
 ある日の学校帰り、おじさんは、狭い路地の真ん中でしゃがみこんでいた。上下揃いのスウェットの尻部分から、ほつれた糸が垂れているのが見えた。おじさんが首だけぐいと後ろに回し、ランドセルを背負う達郎を見上げた。
「おい、来てみ、カマキリがオニヤンマ捕まえたぞ」
 なんとなく、どろりと濁った目を想像していたが、初めて真正面から見た彼の眼球は、よく磨かれたガラス玉のようにキラキラしていた。男は、全身で両目だけが清潔そうだった。
 達郎は、一人であることを後悔しつつ、勇気を振り絞っておじさんの方に踏み出した。逃げたくないという意地と、日常の中に現れた危険な香りへの好奇心が、恐怖に打ち勝った。まだ明るい時間というのも後押しした。
 しばらく二人でしゃがんで、カマキリの食事を見守った。おじさんは、思いの外おしゃべりで「あ、そっちからいくか」「オニヤンマ動かんくなったな」「なんとなく塩辛そう」などと、達郎に言っているのか独り言なのか微妙なボリュームで感想を呟いていた。
 その日から達郎は、何かを見つめるおじさんに出くわすと、近づいて一緒に観察するようになった。おじさんは相変わらず「あそこの犬、また猫にからかわれてんな」「いっつもここにエロ本捨てる奴、いつか目撃したい」「こんなとこから芽が出てくるかね」と淡々と話し、達郎は時々相槌を打った。大人と対等に話しているようで心地がよく、いつのまにかおじさんは、達郎の中で変な大人から憧れのおじさんになっていた。
 昨日、母親から電話で「山田のおじさん、亡くなったよ」と聞いて、達郎はすぐに実家のある町へ向かった。幸い休日だった。
車で走っていると葬儀屋による道中の「山田家」という道案内を見つけ、それに従って葬儀場まで辿り着いた。参列者は思いの外多かった。
遺影を遠目に見つつ、今になって思い返してみると、まるで子どものようだったおじさんの姿を思い出しながら、知らず知らず自分はあのおじさんに影響を受けているかもしれないな、と感慨深く思った。
気付いたのは、個人の半生をしめやかに謳われている時だ。教員として中学校の校長先生まで勤め上げ、退職後も町内会長として地域の為に云々。
誰だ。どこのおっさんの話だ、これ。
遺影を近くで見ると、間違いなく知らない老人だった。しかし焼香の列に並んだ今「人違いでした」などと抜けられない。無関係の葬儀に迷い込んだ不審な男は、己の中の神妙さをかき集め顔を作り、今、どこぞやの見知らぬ山田のおじさんに焼香を上げる。


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