短編小説「食堂 すい星」②
第2話 わかっちゃいるけど
金曜日の仕事終わり、いつも通り十八時半にバスに乗り帰路につく。家の最寄りよりいくつか手前の「警固町」のバス停で降りて、今夜はあの店に寄ろう。このまま一人で家に帰る気には到底なれない。仕事中もぼんやりと、あの店の白い真ん丸の提灯が頭の隅に浮かんでいた。
今夜から行くはずだった一泊二日の温泉旅行の予定は一週間前に無くなった。今夜どころか向こうしばらく、一体いつまでか検討もつかないが、仕事以外のスケジュールが真っ白になった。
どれだけ自分の時間を彼氏に使っていたのか思い知る。今となれば、彼氏と思っていたのは多分こちらだけだったんだろうと思えるが、あの、とても冷静とは言えない精神状態の盲目さでは認められなかった。思えば、今回の黒川温泉も私だけ乗り気で、インスタで見つけたロケーションの素敵な旅館の写真を見せても、面倒くさそうな態度を隠しもせず、手元のスマホゲームから目を離そうとしなかった。会っている時はいつもしているカラフルなパズルゲームに飽きる素振りはなく、ゲームにさえ嫉妬するほど渦中の私の精神状態は終わっていた。
出会った当初の彼は、敬語混じりで、その目に年上女性に対する憧憬を滲ませていたのが懐かしい。いつもそうだ。最初はこちらにその気がなかったはずなのに、熱心で甘い言葉をくれる男達に次第に夢中になって、そうなると立場は逆転し、いつの間にかゴミのように扱われている。その頃には手遅れで、私はいくら足蹴にされても、他の女の影を感じても、その足に必死でしがみついてしまう化物に成り果てている。三十三にもなると「そんな男やめなよ」「他に男はいくらでもいるよ」などという無意味なアドバイスをしてくる友達も周りにいなくなった。
彼は細身で手足が長く、スーツが人一倍似合う。何があっても、その立ち姿を見て私は何回でも惚れ直せた。
バス停から歩いて五分もすれば「すい星」の文字がひょろんと乗った白い真ん丸の提灯が見えてくる。日が落ちるのがめっきり早くなり十九時前には薄暗く、満月のような黄色味を帯びた甘い色の明かりが遠くからでもぼんやりと浮かんで見える。
一人で帰ったところで、とてもシラフで居られる気がしない。酒でものめば泣きながらあの人に電話してしまうかもしれないし、もっと最悪なのは向こうから電話がかかってくれば尻尾を降ってどこへでも赴いてしまうだろう自分。あんなにクシャクシャポイと捨てられたのに。最近ハマっているYouTubeのチャンネルを見て時間を過ごすにも週末は長すぎる。
こんな時は酒場に限る。
重い木の扉をギーギーいわせながら開くと、カウンターの木の色を反射させたような柔らかいオレンジ色の空間が現れ、バター炒めの香りがふわりとした。
「おーゆみちゃん」
店主のヒロシさんがカウンターの中から二ッと笑ってこちらを向いた。早い時間だからか、お客さんは他に誰もいなかった。
生ビールをさっさと飲み干した後は、最近はレモンサワーばかりだ。あの人の影響ではあるけど、だらだら付き合った約一年の間にもう私の習慣にもなっていた。「すい星」のレモンサワーは氷の下にくし切りにしたレモンが入っている。
ケータイを触ったら彼のSNSを延々と覗いてしまいそうで鞄の中にしまった。
大きいお腹でアロハシャツのボタンが今にも弾けとびそうになっているヒロシさんが「はい、きのこバター。今日は一人?後で彼氏来るの?」とレモンサワーをあおる私の前に、テカテカと光るキノコが盛られた小皿を置いた。茄子のトマト煮(辛め)とこれは、毎度のように頼んでしまうメニューだ。
「別れました。別れたてほやほや」
「あーーーそう。まぁゆみちゃんならまたいい人いるよ」
ヒロシさんは大袈裟に頷きながら、当たり障りのない励ましの言葉をくれた。
「ありがとうございます。でも、多分いい人好きじゃないんですよね、私」
「悪い男に惹かれちゃうってこと?」
「うーん私は別に悪い男と思ってないんです。ただ、一般的にはダメなんですよね。実際辛いこと多いし、周りから幸せになれないよ、とか言われたりするけど、正直自分が幸せになれるかどうかでカレシ選んでるわけじゃないし、そもそも選んでるって感覚でもないけど」
「・・・んーわかる!」
さっきまでの同情するようで、その実どうでもよさそうな対応だったヒロシさんが急にワントーン上げた声を出した。
「え、ヒロシさんわかるんですか?悪い女を好きになっちゃうとか?」
「いや最近の煙草よ、喫煙者の立ち位置でさ、わかるのよ。自分の体を思って止めろって言われても、嗜好品を体にいいか悪いかでやって無いし。体に悪いなんてこっちは百も承知だってのよ。誰がなんと言おうと俺は好きなのっていう。確かに喜びがあるのよそこには」
「え、なんか違くないですか」
「いや~わかるよ。ゆみちゃんの彼がどんなにダメだったかは俺はよく知らんけど、それでもまだ今すぐ会いたいんじゃない?理屈じゃないんよね、わかるな~。俺も正直そろそろ会わなきゃ無理」
自分でも依存気味になりがちだとは思っているけど、揶揄られてるのかしらんと思いつつ大真面目な顔して語るヒロシさんに笑ってしまった。
「まぁ周りからなんて言われてもやめられないっていうのは確かにそうかな。ていうか、男とか恋愛ばっかに依存しちゃダメだよって言ってくる人ってなんであんなに上からなんだろ。恋人とか酒とか煙草とか、例えば美容とかランニングとか金儲けとか、あるじゃないですか中毒みたいになるものって。それで体にいいか悪いかで、悪いと軽蔑されるんですよね。あといい男見つけなさいとか説く人って自分がそれに見合ういい人って前提で話してるのかな。謎。あーでもこれから毎週末何しよ。一人の時何してたか、忘れちゃってるんですよね、別れた後って。日がな一日ユーチューブとか見続けちゃいそうでこわい」
彼と出会う前、一人の時間をどうやって過ごしていたか、ビールの後レモンサワーでなく何をのんでいたか、すっかり忘れたわけじゃないけど全ては思い出せないし、今はもうしっくり来ない。
自分が普段より饒舌になっていることを、はたと自覚し、酔いの入り口を感じた。
「へぇなんか意外です」
最初にちょっと顔を出して裏に引っ込んでいた「すい星」のもう一人の店員、松田君がひょこりといつもの猫背で現れた。
「ゆみさんってちょっとクールな大人のイメージだったんで」
「黙ってるときつく見られがちだけど全然だよ、彼氏には甘えたいし」
「ゆみちゃんユーチューブなに見てるの?俺は主にパチチャンネルとかだけど」
ヒロシさんが口髭を触りながらニコニコ聞いてきた。
「好きですねぇ、パチンコ。ちょっと言うの恥ずかしいんだけど、私、学生時代に路上で弾き語りしてる人で好きな人がいて、地味に見に行ったりしてたんですよ。そのうち活動しなくなっちゃったんだけど、ふと最近思い出してユーチューブで検索してみたら、その人のチャンネルがあって」
会社の休憩時間、帰りのバスの中、寝る前、すごく楽しみにしてるほどではないけどついつい開いてしまう。
シュージというその人は、今も時々アコースティックギターを持って唄っているけど、そのチャンネルのメインは彼のその日の気になったことや憤りを感じること、子どもの頃の話、飲み屋で聞いた話を、焼酎の水割り片手に喋る十分程度の短い動画ばかりだ。話がきれいにまとまらない時も多いが、弾丸のように繰り出される大量の言葉と、そのリズムの良さがいつの間にか癖になっていた。そういえば、路上ライブの時代も、最初気になったのは唄というより、合間の喋りの巧みさで、その人間自体に興味が湧いたんだった。今も昔もきっと台本などなく、ただ人より喋りたいことが多い、喋らずにいられない人なのだと思う。
初めて彼を見たのは、高校生の頃、友達と天神で買い物をした帰り道に一人で通った警固公園だった。公園の端でギターを手に唄っていた、というか熱弁していた。彼は当時二十代後半くらいだっただろうか。ピタピタの細身のパンツを履いていたのを覚えている。
彼は時々頭をかきながら、澱みなく喋っていた。小学生の頃、公園で遊んでいると、友達のヒサシくんが、婆さんを怒らせて、そのまま連れて行かれた。ボールが当たったんだったか、なんか声がうるさくて気に食わなかったとか、理由はよくは覚えてないが婆さんは腰が限界まで折れていたけど余りの剣幕で、怖くて逆らえる気がしなかった。数時間後、心配している仲間の元に戻ってきたヒサシくんはまるで人が変わっており、さらにいつもクラスの底を這っていた成績もみるみるよくなった、あれはババアのキャトルミューティレーションだったと俺は疑っている、と大真面目な表情で、おそらく二十年近く前の出来事を昨日あったことのような熱で喋っていた。その後「ババアキャトルミューティレーション」という作詞作曲本人の歌を唄っていた。
YouTube上の彼は、路上時代と変わらない、迷いや羞恥心を微塵も感じさせない演説のような喋り方で、それが内容のくだらなさを強調させた。ほぼ酔っ払いの戯言で構成されており、なぜかいつも終わりに「今日もごくろうさん」と言ってギター片手に植木等のスーダラ節を歌いながら消えていく。呑気なリズムと歌詞はそれまでの熱を持って話していたのは、実は全部どうでもいいことなんだけどな、真面目に聴いてた奴はごくろうさん、とでも言われているようで、その突き放した感じも心地がよかった。
スーダラ節は、聞いたことはあったが誰の曲かはわからず調べて、初めて植木等という人を知った。
「そのチャンネルがですね、なぜか最近登録者数が伸びてて。いかにも自宅っていうような雑多な部屋をバックにしてて、ほとんど編集もされてないおじさん一人が延々映ってる映像なのに。なんかコメント欄がすごい盛り上がってるんですよね」
「今日もごくろうさん」と視聴者同士が挨拶しあうようになり、決してポップではない配信者を友達のようにイジる者もあれば、会社きついけどここに来たらちょっと救われる、といった類いのコメントもあった。
「へぇおもしろそう、ねぇヒロシさん」
松田くんが眼鏡の向こうで本当に興味がありそうに目を輝かせ、ヒロシさんの方を向いたが、ヒロシさんは眉間にシワを寄せて何か考えているようだった。
「ねぇゆみちゃん、そのシュージっていう人、ガリガリで目がギョロっとしてない?」
「え、ヒロシさん知ってるんですか?」
私が見せたケータイの画面を見てヒロシさんは「あーやっぱり!」と声を上げた。
「本当にユーチューブやってるんだ!シュージくん、うちのお客さんで、去年?一昨年だったかな、ここでゲームで負けて罰ゲームでユーチューバーになったんだよ!へぇちゃんとやってるんだねぇ」
「ゲームで負けてユーチューバー」の意味がちょっとわからなかったけれど、身近に彼がいるということに興奮した。
「えー、ヒロシさん僕会ったことありますかね?」
なぜか松田くんまでテンションが上がっていた。
「最近は時々だからね、しかも週末の昼営業の時に来ることが多いから松田くんは会ったことないかもね」
カウンターの向こうの二人の会話を聞きながらケータイに視線を落とすとちょうど通知が二件光った。
YouTubeからお気に入り登録しているチャンネルが更新された通知と、LINEの新規メッセージ一件の通知。
-家おる?飲み会で終電過ぎそうだから泊めて
見た瞬間、血液が逆流するような怒りを覚え、酔いが加速していくのを感じた。あの男は、別れを切り出しておきながら、何事もなかったかのように連絡をよこし、ましてや今日は旅行に行くはずだったこともおそらく覚えていない。怒りと、しかしそれ以上に、浅ましい喜びと、ざまぁみろという気持ちが生まれたのを見て見ぬふりした。通知だけ読んで既読にはしていない。
「すいません、芋の水割り、もらっていいですか?」
「お、ゆみちゃんが焼酎って珍しいねぇ。シュージくんもいつも黒霧の水割りよ」
「そんなんわかってて頼んでますよね!ゆみさん!推し活ってやつですか?」
「推してないって別に」
別れる2ヶ月前、インスタであの人の本命らしき女のアカウントを見つけていた。随分と若そうなこだった。この大SNS時代、執念にかけたブレーキを外せられれば、特定は容易だ。宝石のような果物が乗ったケーキ、おしゃれな一輪挿しに飾られた花、糸島のカフェからのぞむ空と海の写真。ごくたまにしか更新されないそれらは、全体的に淡い色合いで、添えられたコメントは最低限。一言で言うと上品なアカウントだった。数少ない人間が写っている写真に、彼とのツーショットがあった。隣の男を信頼しきっているように幸せそうに微笑む彼女の隣で、まるで信頼に足る男のような顔をしてるあの人。優しそうな視線を彼女に向け、カメラの方を向かないのは照れているようにも見える。私がこの写真でしか彼を知らなければ実に誠実そうな男だと思ったことだろう。一緒の空間に居るのに、酒片手にスマホゲームをし続け、こちらが話しかけたら明らかに聴いてない返事しかしない男とは思わない。多分、彼女の前ではあんな姿見せたことないだろう。だから深酒した後に家に行くのは彼女ではなく、私の家なのだ。
酩酊状態と言っていいレベルの酔いの深さで、すい星を出て。家に帰る前にコンビニに寄って彼が飲んだ後に食べたがる辛いカップラーメンを買って。
夜道を歩きながら、鼻歌を歌っていることに気づく。歯ブラシも、ユニクロのボクサーパンツも家にある。そのままある。
そう簡単に離れられないのはお互い様なのを、あいつはわかってない。
あぁ、わかっちゃいるけどやめられねぇ
すーいすーいすーだららった
すらすらすいすいすい