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短編小説「スマイル」

シメジとキャベツとミニトマトで飾られたペペロンチーノは、見た目の色合いもさることながら、辛さ、塩加減もちょうどよかった。
フォークをくるくる回して麺をまきつけながら、麻美は、目の前に座る浩一の顔をそっと盗み見た。
浩一は、いつも通り、温和としか表現しようのない鶴瓶のような笑みを湛えている。
笑うと目が一本線になるこの笑顔と、バリバリと仕事をこなすギャップにやられたのだ。
前の派遣先の上司だった浩一に、麻美は出会って早々恋に落ちたが、まさか実るとは思っていなかった。
「まみちゃん。唇、ついてる」
浩一が自分の薄い唇を指差す。麻美も慌てて唇を触ると、オリーブオイルとグロスの混ざったベタ付きの中で、シメジの欠片を見つけた。人差し指で掬ったそれを、ペロリと食べる。 「おいし?」
「うん。すっごくおいしいよ。浩ちゃんやっぱ料理上手」 「パスタは簡単でしょ。で、なんだっけ?最近寝れないんだっけ?」
仕事で遅くなった麻美の為に料理をして待っていた恋人は、先に夕飯を済ませていたらしく、彼の前にはコーヒーカップが一つ湯気を立てているだけだ。
「うん・・・。ていうか、この部屋で、寝れない。浩ちゃんはさ、なんともないの?」
麻美は、なんとなく浩一の顔を見ることができず、手元に視線を落としたまま話を続けた。半分に切られたミニトマトがフォークに刺さらずツルツルと逃げていく。
「それって俺が一緒だと寝れない、ってこと?」
付き合いだして1カ月の、麻美より5つ年上の男は、不満というより恋人を気遣って言っているようだった。
「違う、違うの。この部屋ね。あたしの気のせいかも知れないけど、見えるの」
「何が」
「女の人。髪が肩位の」
カシッとフォークが皿に当たって音を立てた。やっと刺さったミニトマトを麻美はジッと見つめる。中から黄色の種がどろりとこぼれた。
「あれ、まみちゃんってそういうタイプなの?」
「ち、違うよ。初めて、だし。いや、でも夢かも。ごめん」
付き合いたての彼氏に、霊感持ちの気持ち悪い女だと思われたくなくて、麻美は慌てて話を濁した。
実際、麻美は25年生きてきて、自分に霊感の類など感じたことは一度も無かった。
浩一は「そ?今度嫌な夢見たら俺を起こしなよ」と言いながら、麻美のグラスにペットボトルからミネラルウォーターを注いだ。
付き合いだして1カ月、麻美は1週間の約半分を浩一の部屋で過ごしていた。
女が現れたのは先週の火曜日だった。
8月だというのに、肌寒さを感じて目が覚めた。隣の浩一は半裸でこちらを向いて寝ていた。日中見るより男臭い顔に見える。
視線を感じ、天井の方に目をやると、真上に女の顔があった。若干飛び出ているかのような大きな目が、こちらを凝視していた。
 暗闇に浮かぶ女は上半身だけで、確かにすぐそこに見えるのに、違う次元にいるようだった。
 声が出なかった。
女はしばらく麻美の顔を瞬き一つせず見つめた後、うっすら口元に笑みを浮かべて蒸発するかのように消えた。瞬間、外の喧騒、浩一の寝息、あらゆるその場の空間の音が、麻美の耳に戻った。女がいた間、静寂以上の無だった。
それから、この部屋に泊まる度に女は現れた。鳥肌が立つほどの寒さを感じて起きたが、女が消えた後、麻美はいつも全身にじわりと汗をかいていた。


週末、麻美は浩一のマンションで洗濯物を干していた。申し訳程度の広さのバルコニーには、さんさんと太陽が降り注ぎ、真夜中の陰湿さを微塵も感じさせなかった。
 機嫌よく作業を進めている途中、ふと洗濯機の裏に茶色の布で包まれた物体があることに気付いた。何とはなしに触ると、固い感触があった。ちらりと布をめくり、中をのぞくと、湿った土と錆びた鉄の匂いが鼻をついた。大きなスコップだった。 「なにしてんの?」 背後から突然抱きしめられ、麻美は思わず「わあっ」と声をあげた。
「浩ちゃん、もうびっくりさせないでよ」
笑顔で振り返ると、いつもの、目がなくなる笑みが彼女を迎えた。
 麻美は、浩一のことが心底好きだと思った。
麻美は、浩一を彼氏として完璧だと思っていた。
 紳士的で、頼りになり、料理もできて、それでいて笑顔に愛嬌がある彼は、自分にはもったいないとすら思った。夜には、普段見せないサディスティックな面が顔をのぞかせたが、特に抵抗はなかった。日本人女性の大半がそうであるように、彼女も多少強引な男に弱かった。
翌日歯型が真っ青に浮かぶほど強く噛まれることも、意識が遠のく直前まで口を塞がれることも、彼女の許容範囲だった。恋人同士というのは、二人きりになれば人に説明できないようなことをしているのが普通だと、25年生きてきて彼女は感じていた。
 女はやがて現れなくなった。
浩一の性癖が少しずつエスカレートし、麻美に夜中に起きる体力が残っていなかったからかもしれない。
または、本当に悪夢だったか。
 その夜の浩一は、殊の外昂奮しているようで、その熱心さに麻美は圧倒されていた。まるで別人のような彼に心細さを感じた麻美は、小さな声で彼の名前を呼んだ。
「どうしたの」
そう言って、いつもの笑顔を彼女の恋人は浮かべた。
麻美はなぜかゾッとした。背骨に冷気を当てられているような感覚があった。声が出なかった。 「どうしたの」
浩一はもう一度柔らかく麻美に声をかけ、顔を覗き込みながら両手を彼女の首にかけた。
緩やかに、しかし確実に力が入っていく。
ヒューヒューと麻美の口から木枯らしのような音が鳴る。顔中がパンパンに腫れているような感覚があった。
薄く開いた目の奥に彼の狂気を見たが、すでに時は遅かった。
彼の物の怪のような笑い顔の後ろで、青白い女が、自分と同じ運命に落ちてきた麻美を嬉しそうに見下ろしている。


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