全体最適と個別最適について①

○初めに

なぜ人は愚かなのでしょうか。
この質問はあまりに唐突であり、これを見ただけでは私が頭でも打ってスピリチュアルなものに嵌ってしまったのではないかと考える方もいらっしゃるでしょう。それにそもそもタイトルとのギャップが激しくて耳がキーンとなってしまっているかもしれませんが、それは一旦脇に置いておいて今回の記事では人はなぜ愚かなのか、そもそも「愚かさ」とは何かということについて述べたいと思います。

○「愚かさ」とは何か

・広義の「愚かさ」

まずここでは"広義の"「愚かさ」を、「合目的的でない行動」とします。つまりある目的があって、それに対して適切な行動がとれないことをここでは「愚かさ」だとすると宣言しているのです。この時点で違和感を覚える方は多くいらっしゃるでしょう。人が目標を達成できないことには背景がある、それを十把一からげにして愚かだというのか。
私の答えは「はい」。その通りです。しかし私が言いたいことはあくまでクオテーション付きの「愚かさ」であるということです。つまり広い意味でとらえた時の、そして真の愚かさから拡張した「愚かさ」であるという含意があるのです。簡単に、そして思うところを言えば、私が愚かだと本当に思っている行為は「合目的的でない行動」のほんの一部である一方で、皆さんが愚かだと思っている行為は私が思うそれより大きく、しかし広義の愚かさよりも小さな領域であるということです。大中小のマトリョーシカを想像してもらえばわかりやすく、一番大きなマトリョーシカは「合目的的でない行動という広義の愚かさ」であり、中くらいのは「皆さんが思う愚かさ」であり、最後の小さいのが「私が思う愚かさ」であるということです。では何でこんな意味のないものを設定するのか、何が違いなのか、と問いただしたいかもしれませんが、せっかちはそれぐらいにしておきましょう。刑事ドラマも初めから犯人は自白しません。しかし皆さんの想定する「愚かさ」と私が想定する「愚かさ」の違いは何なのか、これについては次で議論してみたいと思います。

・私が思う「愚かさ」と皆さんの「愚かさ」

私が思う愚かさに含まれず、皆さんの思う愚かさに含まれるものがあります。これがタイトルの回収であり、全体最適と個別最適の相反です。よくある例えが「囚人のジレンマ」でしょう。両方自白したら10年、両方自白しなかったら1年の懲役であるにも関わらず、片方だけ自白したら連れは懲役10年だが本人は今すぐ釈放してやると言うと、両方自白してしまう。つまり全体で見れば最適な行為が個別で見たら最適な行為に負けてしまうということです。あるいは株価が下落したら皆損切りをするので一気に暴落する。合成の誤謬ともいわれますが、これもまた全体で見たら最適な行為を取らず個別で見たら最適な行為を取ってしまうことの典型例です。皆さんは当然愚かだと思うかもしれませんが、私はそうは思いません。これは皆さんの身近でも起きる現象なのです。
例えば仕事やグループワークで誰も率先してやらない。誰か率先してやる人に乗っかってやった方が楽だからそうする。すると誰も乗っかりたい人ばかりになって誰も率先しなくなる。あるいはいじめを皆知っているが放置してしまう。いじめを助けるといじめられる。もしくはいじめを助ければいじめられっ子を助ける役割が自分にばかり押し付けられるかもしれない。そうなると誰も助けなくなる。糾弾したくなるかもしれませんが、良いとか悪いとか関係なしに起こってしまう現象です。こうした負のナッシュ均衡とも呼ぶべき状態は歴史で繰り返されてきました。
なぜ日本は勝てもしない戦争に臨んだのか。軍部は勝てる見込みがないことは分かっていたが、戦争に臨まなければ何のための軍部かと予算を削られることを恐れた。昭和天皇は立憲君主制の伝統を守るために口出しをしてはならないと考えた。政府はアメリカに妥協して国民の支持を失うことを恐れた。マスコミは反戦を掲げて国民から攻撃されることを恐れた。各々が自分にとって最適な行動を取った結果、先の大戦は起きてしまった。これを各々の保身と言い換えることはできます。しかし自己の利益を最大化することを放棄することは人間の本性ではない。人間の本性とは自己の利益を最大化することです。

これを批判する人々は多いのですが、彼らは物事の順序が逆転していることに気づかない蒙昧な方々です。人の社会性や規範、良心といったものたちは、言語や文化と同様に人工的なものです。要するに本当のストーリーとはこんな具合です。
大昔で集団を形成した個体群がいて、その個体群だけ残った。集団でいることが有利になるという因果律を理解した個体群は社会性を身に着けた。さらに人々が生活する中で個別最適が全体に対して利益にならない現象が起きた。そこで集団は集団自体を保存しようと全体最適となるようにルールを作っていった。それが規範であり、道徳であり、良心だった。そうしてできたモラルは新しく生まれる個体に伝達され、個別最適が全体を害する事象が新たに発生する度にそうしたモラルは増えていった。つまりこうした個別最適を飛び越して全体最適に繋がるショートカットが社会規範なのです。
ちなみにこの話は、ミクロ経済学の入門書としてベストセラーになっている「ミクロ経済学の力」にある、「10章 最後に社会思想(イデオロギー)の話をしよう」で書かれている話を参考に私の解釈や暴論を混ぜに混ぜ込んだものです。

○まとめ

さて、こうした話を踏まえて今一度問うてみたいと思います。個別最適ゆえに全体最適を害すことは「愚かさ」でしょうか。社会規範が正しく伝達されなければ、社会規範を共有していなければ、社会規範がそもそもなければ、全体最適を達成することは難しい。アディショナルなオプションに過ぎない社会規範がいつも思うように機能するとは限らないわけです。さらに言えば全体最適が常に正しいとは限らない。例えば100人の集団がいて、同性愛を嫌悪する人が99人、1人だけ同性愛の人間がいるとする。ここで同性愛の人間を殺すことは全体最適でしょうか。全体最適ばかりを求め続けることは、結果的に異端を排除し続けファシズムの端緒を開くものかもしれません。だからこそ私はこれを「愚かさ」に含まないわけです。個別最適は人間の本性であるし、個別最適は全体最適に害することがあるが常に全体最適を追い求めることが正しいとは限らない。だからこそ個別最適は「仕方ない」と思うことが必要です。もちろんこの「仕方ない」というのは善悪といった価値判断ではありません。この「仕方ない」というのは、自然にしておいたらそうなる、という意味です。私が「合目的的でない行動」を「愚かさ」と定義した時に皆さんが出そうとした反例のように、「仕方のない」行為なのです。実はそれを伝えたくて広義の「愚かさ」を定義し、そして「人はなぜ愚かなのか」という話を持ち出したわけです。この記事で語りたいことは「なぜ人は愚かなのか」ということではありません。一番伝えたかったのは個別最適を求めることは「仕方のない」ことであるということです。
そもそも人は愚かではない。人は非合理的な行動をほとんどしない生き物です。それでも人々がある意味で錯覚してしまうのは、アディショナルな行動原理であるはずの「社会規範」を誰もが共有していて誰もがいつでもどこでも実行可能なものだと、大前提に据えすぎてしまっているからに他ならないでしょう。
「個別最適は仕方がない」、これだけは覚えて帰ってほしいと思います。

○備考

何故このような全体最適と個別最適にクローズアップした記事を書いたかというと、「個別最適はある種仕方がない」という発想を念頭に置くと色々な問題でなぜ議論が食い違うのか、なぜ○○は~しないのか、という問題の本質をとらえることが出来るからです。具体的な話については他の記事で書きます。

またちらっと紹介した神取道弘教授著「ミクロ経済学の力」は、とても分かりやすくミクロ経済学の理論的な部分が学べるだけでなく、では具体的にあてはめたらどうか、という現実との対応が詳しく書かれています。ミクロ経済学に興味がない人も是非読んで頂きたいです。
凡百のテレビコメンテーターがするコメントも陳腐で的外れでくだらないと思えるぐらいに、しっかりとした社会への見方が身につくのではないかと個人的には思っています。


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