何かのためにがまんしても

何かのために譲ったりがまんしたりしても、その何かがあるとは限らない

もかこの手帖

何かのために自分のやりたいことをがまんすることがある。しかしその「何か」が起こらなかったりうまくいかなかったりした時、そのためにあきらめたことは「犬死に」になってしまう。そしてその時初めて、あきらめたものや無駄にしたチャンスの重さを知るのである。  

自分が大切にしているものや、どうしてもやり遂げたいことであれば、犠牲を払っても惜しくない。しかし、そこまでの熱意を持てないものや漠然としたもの(世間体や固定観念もこの類であろう)のために、今確実に得られるものを見送る、というのはもったいない。それなのに、私たちは往々にしてそういうがまんをしてしまう。

片付けの本にはよく、「いつか着られるかも」と入らなくなった服をとっておくのは止めましょう、と書いてある。使えるスペースが減るし、その分余計な家賃を払っている可能性もあるという。そして、あるかどうかもわからない機会のために物をためておく習慣(娘が結婚もしていないのに孫の服を買っている人もいるらしい)を止めよう、という話になる。使うあてのないもののために現在の生活を犠牲にする・・こちらは目に見えるものの話であるが、通じる所があるのではなかろうか。  (2017. 10)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?