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夢の束縛

夢って束縛でもある(他の夢が目に入らない)、いうことに気づく。

もかこの手帖

夢は生き物である。本人の趣味・志向が変わることもあれば、夢そのものが無効になることもある。世の中が変わると、行動の意味が変わり、夢の意味も変わる。特に子供の頃の夢は、憧れていた職業が大人になるまでになくなることすらある。昔私が願ったことも、いつしか「お金を払えば誰でもできること」になり、当然ながらその価値も変わってしまった。それでもその夢を手放すことはできなかった。

ところが去年の暮れに年頭所感を見直した時、「○○卒業」と書いてあるのを見て唐突に、ああ、あの夢も卒業やな、と思う。この○○は、その夢とは何の関係もないので、「卒業」という言葉に引き出されたのであろう。つきものが落ちたような気がした次の瞬間には、あれにこだわらないのであれば、●●をしたい、と考えていた。

「甲子園出場」のような夢であれば、良くも悪くも叶えるチャンスは限られている。良く、というのは、いつまでも縛られることがない、という意味である。「いつか○○したい」とずっと思っている場合、その○○と両立しない選択肢は消され続けるのだ。その中に、自分によりふさわしいものがあったとしても。

一つ手放すことで、また新しい夢を持つことができる。いや、新しい夢が宿った時こそ、古い夢を手放す気になるのかもしれない。新しい苗を買ってきて、植える場所がなかったら、枯れたままになっている植物を手放すことを考えるだろう。新しいプランターを買ってくる、という手もあるが、庭を持っていない限りスペースには限りがある。

夢も、心の庭に植える花のようなものかもしれない。(2018.12→2024改)

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