不幸の皮をかぶった幸せの種
一昨年の春、体の使い方に関するワークショップに参加した。後半は、希望者がパフォーマンスをして、そのタイトルを皆で当て合うものであったが、前半が長引き、用事が控えていた私は、主催する先生の作品を途中までしか見られなかった。後にメールでタイトルをお尋ねすると、「あれはギフトというタイトルです。人生に起こる様々な望まないこと、とっても辛い嫌な出来事も自分の生き方次第、考え方次第で全部、自分にとってのギフトになるということを作品にしたものです。」とのお返事を頂く。それを見て、以前思いついた「不幸の皮をかぶった幸せの種」のことが浮かんだので、上のようなお返事を書いた。
数年前、何の自覚症状もないまま大きな病気がみつかった。動転し、こういう時は落ち込むのではなく浮き足立つのだと知った。その頃よく聴いていた音楽は、未だにこわくて聴けない。
この人なら、と思い定めて相談した相手は皆、遠くから会いにきてくれたり、ご主人(医師)にきいて病院を調べてくれたり、それぞれの形で親身になってくれて本当に心強かった。そうしてつながりが深まった人たちは今でも私の支えであり、あの病気がなかったら、この人とこんなに親しくなれなかっただろうな、と思うと、病気にかかった場所をなでたくなる。
「不幸の皮をかぶる」というのは、シューマンがショパンのスケルツォを評した「冗談が黒い着物を着て歩いているのならまじめは何を着て歩いたらいいのだろう」からの連想である。イタリア語の「冗談」に由来する「スケルツォ」という名を持ちながら、その実深刻で激しい曲であることを指摘した言葉として知られている。 (2017. 6→2024改)
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