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仲悪くたっていい

日本人は「仲良く」が好きである。水や平和や安全と同じように、これもまた只で手に入るものと考えている。その思いが過ぎるために、つまり、「仲良く」が絶対だと考えるために、ギクシャクすることが多い。(中略)仲悪くったっていいじゃないか、失礼でさえなければ。

阿久悠『清らかな厭世-言葉を失くした日本人へ』

自分で選んだわけではなく、かといっておいそれと取り替えるわけにはいかない家庭や職場の人たち。仲良くできるのは当たり前でなく「当たり」であろう。作詞家として長く活躍した筆者は、無理に仲良くしようとしてギクシャクしたり、果ては嫌ったり無礼なことをした例を、芸能界でたくさん見たに違いない。 仲良くなれないのは相性が悪いのであって相手が悪いわけではないし、苦手だというのは無礼なことをしてもいいという理由にはならないのに。

それでも職場はまだいい。ある程度の規模になればみんな仲良くなんてできないことを、最近の人は知っている。しかし家族に関しては、仲良くあるべきだ、という家族神話がいまだに根強い。仲良くできない(暴言や暴力が見られるのはもうこの段階ではない)、子供を好きになれない、などと悩む人は少なくないらしい。

しかし、世の中には不幸にして親や子に愛情を抱けない人もいます。(中略)親には製造者責任というものがあります。だからたとえ子供に愛情がなくても、親切にしてあげて欲しいと思うのです。愛は偶然の産物ですが、親切は努力のたまものです。電車の中で見知らぬ老人に席を譲れるなら、わが子にも親切に出来るでしょう。

山口恵以子『おばちゃん街道 ~小説は夫、お酒はカレシ~』

「親切は努力のたまもの」に異を唱える向きもあるかもしれないが、相手は見知らぬ老人ではない。見知らぬ老人はいうならプラスでもマイナスでもない存在である(席を譲って怒られでもしたら、その時初めてマイナスの相手となる)。自分の子供に愛情を抱けないと感じるまでには、相性だとか不幸な行き違いだとかいろんなことがあったはずだ。マイナスが蓄積されている。努力のたまもの、言い得て妙である。

一緒に仕事をするのだから、家族なんだから、仲良くすべき・・・もちろん仲がいいにこしたことはないが、それが絶対ではない。無礼なことはしない。できれば親切にする。それで十分ではないか。    (2016.11→2024.3 改)

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