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本物の記憶が人を寛容にする・・こともある
本当においしいもずくに出合って以来、私はどんなもずくでもおいしいと思うようになった。思うに、最初に食べたおいしさの衝撃が、その後、寛容となってその食材自体に付与されるのだ。さほどおいしくないもずくでも、あのおいしい記憶が補ってくれて、「おいしいような気がする」とやさしい気持ちになれる。本当においしいもの、つまり本物は、それほどの威力をもっている。
あまり好きではなかった食べ物が、あるお店のものがきっかけで大好物になることがある。その理由がわかったような気がした。そしておそらくこれは食べ物だけのことではない。相手の良さ、本質のようなものに好意を抱いていれば、機嫌の悪い時に邪険にされたりしても許せる。寛容というのはありがたいものだ。
しかし例えば、DVから逃げ出さない女性が、「暴力をふるった後はやさしい」「普段はとてもいい人なのに」などと言うのはどうであろう。穏やかな時、暴力をふるうようになる前の「本物」の彼の記憶が、暴力に対して寛容にしているのである。自分にも覚えがある。「そんな女やとは思わへんかった」と罵られたが、最初のうち「理想の女」を演じていたわけではない。それができるなら、いつ彼の理想とずれるのか、要は怒らせるのかわかるはずだ。相手は、自分の中にある理想の私こそが「本物」だと思い、実物の私に対し「本物のような気がする」とやさしい気持ちになってくれることはなかった。
理想の私は、彼にとって都合のよい「本物」であり、本物ではないから寛容になれないのか。いや、それをいうなら、暴力をふるわない彼、というのも自分に都合のよい「本物」にすぎない。
どの食材にも、「本当においしいもの」があって、それに一度でも出合えば、その先ずっとその食材に対して人は寛容になる。それはひっくり返せば、本当においしいものに出合わないかぎり、私たちはその食材を見下し続ける、ということでもある。
食べ物相手に大げさな、とも思えるが、人だとしたらどうだろう。寛容になれないということはその人を見下しているということだ。
食べ物の話に戻ろう。本物の記憶が食生活を豊かにしてくれるのなら、本物をたくさん知っている方がよさそうだが、新鮮な魚を食べて育ったので都会の魚が食べられない、という類の話は珍しくない。本物の記憶のために不寛容になっているのである。物心つく前に覚えた味は記憶ではなく別のものなのだろうか。
あるいは。嫌いなものでも本物と出会えば好きになるか、というとそんなことはない。私は母の大好物であるさらし鯨が苦手で、子供の頃無理に食べさせられては吐きそうになった。それが、男友達が連れていってくれたお店で美しいお皿に乗って現れたの時の衝撃・・。苦手だと言い出せず、丸呑みする覚悟で口に入れたところ、匂いは全然なく、涼やかにのどを通り過ぎていった。新地にくればこんな味になるのか、と心底感心したが、それはそれとして、さらし鯨は今後とも御免こうむりたい。 (2020.6→2024改)