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墨田区八広の大黒湯 『カナガワの鱒釣り』10
墨田区八広の大黒湯はおばあちゃんちのすぐ近く、風情だなんて、それで当然だった。
チンチンに熱い湯に色が奇妙な海と島の絵、大きい湯船と小さな湯船に仕切られて、小さな方はでたらめに熱かった。
墨田区八広の大黒湯は風情なんてありゃしなかった。それで当然だったから。脱衣所にはぶら下がり健康器があった。
下町の湯には人が集まってくる。熱さにこらえて唸るはちまき、ケロリンも手ぬぐいも床やれ背中をたたいて音を出す、脱衣所ではタオル一枚コーヒー牛乳と野球中継、壁付け扇風機の下では子どもが遊んでいた。
僕と兄と従兄弟の三人には目的があった。それぞれ服を脱いでかごに入れる。湯に入るまでははしゃいでいたけど、湯に入ったらば我慢くらべがはじまった。
「ザ・ガマンね」と、兄は必ずそそのかす。
湯船からは白色の湯気がもうもうと立ちのぼって、ぼんやりとした。湯の中ではほんのわずか、1ミリでも動くとピリッと身体が痛かった。
兄たちは温度になれて、あげくの果てに潜りっこを始めようと「この下にある穴、抜けてそっちがわいけるよ」なんて。
僕たちは湯の中で何もかもあっためていた。母やおばあちゃんのことを考えたし、父やおじいちゃんのことも考えた。幸福が湯の中でのぼせ上がって身体の芯まで真っ赤にした。
僕と兄と従兄弟の三人には目的があった。
湯から出て、脱衣所で、コーヒー牛乳? いいや違う。大黒湯には一台だけ、脱衣所の奥まったところに一台だけ、それが置かれていたのだ。
熱血高校ドッジボール部!一回50円!
つまり、僕と兄と従兄弟の三人は服もろくに着ないでこいつをやるわけで、15分、30分、身体も冷えて、本末転倒。
「こらあ! あんたたち、またゲームやってんでしょ! はやく帰ってらっしゃい!」と番台の外から怒鳴る母の声がした。
「よーお! いちかわさんとこの子たちかあ、どーりでよお」と番台の親父が言った。
「なーに? なにが言いたいのよ! まったく!」と母が威勢よく言い返す声がひびく、と、着替えていた大人たちが笑いだした。
墨田区八広の大黒湯はおばあちゃんちのすぐ近く、風情だなんて、それで当然だった。
読んでくれてありがとう。明日も元気で!
多分僕もまた来ます。