「猫」について


先日、私がこの世で一番好きなダンサーの最後の公演がありました。彼女の躍りをもう二度と舞台上でみることができないのではないか、この一瞬一瞬が見納めなのかと思うと絶望しかありませんでした。そんなの絶対嫌だと思い「もったいない、もう躍りをみれないなんてこの先どうやって生きていけばいいのかわからない」と懇願気味に言うと、「それでも決めたことだから」と彼女は返しました。目が、言葉が強くて、私はそれから何も言えなかった。
彼女がダンスから離れることはないけれど、彼女の躍りが私は好きだった。

才能や魅力がある人ばかり演劇やダンスをやめていく気がする。

現実を見れないやつばかり続けていく。

と勝手なことを思っていました。

今は他の誰でもない、
本人が決めたことに価値があるんだ
と思います。自分で決断したという未来に何も勝てない。

夢は見続けられたら幸せです。でも夢はもうイメージでしかない。
本当に真摯に向き合ったときに出会う選択肢を選べるか選べないかでこの先が決まる。

もじゃもじゃ第二回本公演「猫」は私にとってそういう「選択肢」と「見えないものは、見えるようになるのか、見えないままなのか」の話です。(あくまで私にとっての猫なので、作者や他の役者スタッフとはまったく違うと思うので「猫はこういう話!」ということではないのですが。)
この物語の中にも沢山の選択肢と分岐点がある。


登場人物がそこにどう向き合うかどう選択するかでがらりと物語は変わっていきます。毎日裏切られた気分で取り残されたような気分です。悪い意味ではなく、事実として。周りの人達は本当に強い人ばかり。そんなみんなと同じ景色がみたいと思うのですが最近はもしかしたら、というか事実、みんなと同じ景色は永遠にみれないことに気づきました。



観にきてくれた人達にしか見えないものがあるのかな、と思います。
創り手の届かないところに、観客が届く。そんな舞台があってもおもしろいなと、思っています。

劇場にきてください。遠いし、お金もかかる。人の感性はそれぞれ、だから絶対に面白いとも言えないし実際みにきてくれた人たちの心に少しだって触ることできないかもしれない。むしろ理不尽にぶん殴ってしまうのかもしれない、けど私たちだけで何かを成し遂げたり考えたり物語を動かしていくのは無理です。できれば私たちが共に考えて考えて嫌になってそれでも考えてつくりあげた稽古の時間と、まったく遠いところにいる人にみてほしい。面白いとかみたほうがいいとかいう保証はできませんが、あなたが猫をみて考えること思うことそのときの感性を私は絶対見捨てない、絶対に見捨てないことを誓います。

私が目指す「猫」は、今を生きて選択し続ける人達、すべてに向けた舞台です。


泉川遥香

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