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アートに触れて

「Study:大阪関西国際芸術祭」に、1時間半ほど仕事を中断して行ってきた。開催されていることを全く知らなかったのだが、昨日友達に誘われて行くことにした。

「アート×ヒト×社会の関係をStudyする芸術祭」と謳われているこのイベント。本日訪れた船場エクセルビルには、落合陽一さんをはじめとするアーティストの方々の作品が展示されていた。

こんなイベントに参加をしておいてなんだが、ぼくは全く「アート」というものに触れてこなかった人間だ。そんな人間がこんな作品がありました、と伝えても、上滑りするような気がする。だから、ここでは控えようと思う。


では、数々の作品を見て、ぼくは何を感じたのだろう。

正直に言えば、よくわからなかった。ただ、非日常体験だったなとは思う。読んでいる本にしおりを挟むように、連続している日常に「アート」という異質なものが挟みこまれた。そんな気がした。


日常を過ごしていると、「どうしたってわからないこと」に出くわすことはそれほどない気がしている。Google先生に頼れば、ほとんどのことはわかる。いや、わかったような気になれる。

もしGoogle先生に頼ってもわからない場合は、大抵の場合、諦めてしまう。もういっか、わからないし、と。

今日見た作品の数々は「どうしたってわからないこと」だ。

これは何を表現しているのだろう。何を伝えたいのだろう。中には、どこまでが作品で、どこまでが作品じゃないのかがわからないものだってあった。

わからないの連続に、ついつい諦めたくなった。だってGoogle先生に聞いたって、絶対答えてくれないものばかりだから。

じゃあ、どうしてこんなnoteを書いているかというと、今日出会った「どうしたってわからないこと」を忘れたくないからだ。


2021年2月22日、Eテレで放送された『100分 de 名著』という番組で伊集院さんがこんな発言をされていたそうだ。

「問い続けることをやめるってことは、『答えが出たと思う』か『諦める』かのどちらかになるのではないか。でも、『諦める』ことは完全な分断だし、『答えが出たと思う』ことは偏見だと思うんですよ」
Eテレ『100分 de 名著 「黒い皮膚・白い仮面」』

作品に対して「わからない」と言うことは、失礼なのかもしれない。ただ「わからない」からこそ、こうではないか、いや、ああではないかと問い続けることもできる。

今日、日常の中にはさみこまれた異質なものをときには思い出し、問うことを続けていきたいと思う。




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