楠木カヤちゃんとカスの家庭教師のお姉さん
『昔々あるところに……』
この書き出しから始まる物語はまさしく昔々からきっと星の数ほどにあり、それ故に、この現世のB面たる形而上学的世界には『昔々あるところに……』なる書き出しの物語によって形成された玉石混淆の大海原が存在していることは、物語に関わる者にとっては周知の事実である。
かくて、迂闊にもそのような書き出しから始まった物語は、数多の物語が生み出す物語的重力に捕まり、物語的大海原をのんびり揺蕩うことすら許されぬまま、あわれ暗黒の物語的深海へと引きずり込まれ、二度と日の目を見られぬ有様になってしまう。ついでに、苦心して書き上げた物語がそのような末路を辿ったことを悲しむあまりに、それら物語の作者たちの精神は奇怪な深海魚のごときものへと変じて物語的深海をのそり、のそり、と這い回っているというのも、創作者たらんとする者たちの間ではしばしば恐怖を伴って噂されるところである。
そういう訳で、かかる悲劇的末路を避けるため、物語の作者たちは『昔々あるところに……』から遠ざかろうと、あの手この手で、頭をうんうん捻って、読者の興味を引く、目を釘付けにする、次から次へとページをめくる手が止まらない、心のやわらかい所にフックがザクザク食い込んで外れなくなる、そんな書き出しから始めているわけだ。要するに、この物語の書き出しも、そのような目論見によって作られているのである。
「お姉さん。ごめん、何言ってるのかよく分からない」
「まあまあ。カヤちゃんったら、何が分からないのかしら?……日本語とか?」
「今、お姉さんに馬鹿にされたことは分かったよ!」
「すごいわ、カヤちゃん!大正解!」
もはや何も言わずに、わたしは固く握った拳をお姉さんに叩きつけた。
いいところに入ったらしく、お姉さんは床で転がりまわっている。
衝動のまま身体を動かすことに、テストの成績や通知表の評価なんか関係ない。今日の一番の学びだった。
【つづく】
#逆噴射小説大賞2024 #小説
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?