自己実現って何それ美味しいの
人生設計ができている人ってすごいなと思う。
「3年後には○○ができるようにこれを続けて、
5年後には結婚して、△△に住んで、こんな仕事ができるようになりたい!」
すごいな。自分の人生を、自分の手で舵を切る覚悟があると思う。
ひねくれ者の私は、「明日のことだってわからないのに、何言ってるの。」
そう言って逃げてばっかりだ。
私は目標を立てるとプレッシャーばかりに気を取られて、本来の目的を失いがちだ。それに、向き不向きなんて自己判断よりも人から言われたものの方が的を得ている。
だから、その場のノリで、気持ちの赴くままに、勧められたことは否定せずに、流れるように生きようと心に決めている。
でも時々、どうしようもない不安に襲われる時がある。
「芸は身を助く」というけれど、私には「芸」があっただろうか?
芸を身につけるために頑張ったことがあっただろうか?
行動し続けることがあっただろうか?
私の人生に足りていないのは、お金でも、小綺麗な容姿でも、
素敵な洋服や鞄でも、時間や優れた能力でもなく
自分に向き合う忍耐力なのかもしれない。
心に埋まらない穴がある。心が動いて風が通るとき、
その穴の存在を嫌でも実感し直す。
おかしいな。この間欲しかったコスメ買ったじゃん。
2を心待ちにする5を耐えるためのご褒美、あげたのに。
っていうか、2のために生きる5ってなに。
5だって、立派に私の人生なのに。5を消費する感覚が、どうしようもなく悲しく虚しい。
自分が抱く空虚な気持ちだって、誰かの言葉を借りないと表現できない。
「自分の言葉で」の自分って、どこにいるんだろう。
その自分って、結局どこかの誰かが言ってた言葉のパッチワークみたいな存在でしかないんじゃないか。それか、コラージュとか。
あれもセンス良くまとめるの難しそうだよね。
そういえば、どこかの偉い大学の先生が、「まとめることも立派な能力で、これからの時代に求められることだ」と言っていた気がする。
うーん、なんかちょっと救われたかも。気がするだけだけど。
好きな人を通して、自分の興味関心の幅が広がることって、結構素晴らしいことだと思う。
カメラ始めてみたいな。好きなアイドルが、よく素敵な写真を撮ってあげてくれる。私もやってみたい。
設定とか難しいのかな。楽しくなったら、そんなの苦じゃないんだろうけど。
感覚的な活動に思えて、実はすごく理論的なのかもしれない。どうかな、私には難しい気がしてきた。
10万円の鉄の塊を、タンスの肥やしにする未来がみえてしまった。
通信教育教材の付録だって、あんなに親にねだった癖に、すぐガラクタになったのだから。
でも、手のひらサイズのミクロスコープだけはずっと手離さなかったな。あれ大好きだった。なんでも拡大して覗いていた。
結局、理系に進むことはなかったけれど。
ドラマとか映画とか、否応なく自分の感情を動かされるコンテンツを観るのがいつからか苦手になった。
世では「共感性羞恥」と呼ぶらしいそれが激しすぎるので、とにかく疲れる。自分の人生生きるだけでも感情は手一杯なのに、
他人の人生疑似体験している精神的な余力、私にはない。
ふとした瞬間に、私はこの物語を知ることがないまま一生を終えるのだろうかと、漠然とした絶望感に駆られる。だからといって、頑張ることはないのだけど。
人生一度きり!一生は短い!
そう言うけれど、「人生-仕事」の結果残った時間、最低限の家事と趣味以外に何をしたらいいのかわからない。
え、もしかして、人生って思ったより暇?
スマホがなかった時代、人々は何をして余暇を過ごしていたのだろう。
その時の方がよっぽど幸せだったかもしれない。
とはいえ、誰かの人生の素敵な瞬間を切り取ったSNSが結構好きで、見ていて楽しかったりもするから、あーあ、自分がよくわからない。
人里離れた山奥で暮らすことが、私の幸せだとも思えない。
だって虫嫌いだし。アイドルのコンサート行きたいし。車運転苦手だし…。
冷静な諦観のような、ただの諦めのような。
叶えたい自己を見つけるだけで、一生を終えてしまいそうである。
どうにもならない感情を、流れるままに書き綴ることしかできない、日曜日の夜。