【短編】 魚と雨傘
不思議な傘屋は、その日突然現れた。
傘屋は無口な老人で、手には色とりどりの傘を持っていた。
ここは市街地のはずれの魚市場。
ど真ん中にぽつんと立ち、魚の匂いが立ち込める中で、その傘たちは異様なほど鮮やかに輝いて見えた。
なんで市場で傘なんか売ってるんだ?
誰もが怪訝そうに老人を見つめたが、誰も彼に声をかけようとはしなかった。
市場で働く青年、タケシはいつものように魚を並べながら、ぽつぽつと降り始めた雨に舌打ちをした。雨が降ると客足は鈍る。
ふと周囲を見渡すと、傘屋の老人がこちらをじっと見つめていることに気づいた。
老人の視線は何か言いたげだが、口を開くことはない。タケシは思わず目を逸らし仕事を続けようとしたが、そのとき、不意に老人が彼に近づいてきた。
「傘を買わないか?」
声は低く、湿った空気の中で響く。
タケシは驚いて老人を見た。老人は一本の傘を彼の前に差し出していた。
それは黒と青の縞模様が美しい、少し古びたデザインの傘だった。
「いや、俺は傘なんか――」
タケシが断ろうとすると、老人はさらに近づき、静かに言った。
「この傘を持てば、魚の気持ちがわかるようになる。」
その一言で、タケシは完全に困惑した。
「魚の気持ち?冗談だろ?」そう思ったが、老人の目は冗談を言っている様子ではなかった。
好奇心に駆られたタケシは、少し戸惑いながらもその傘を買うことにした。老人は微笑むこともなく、静かに去っていった。
その夜、タケシは傘を玄関に置き、何気なくそのまま寝床に入った。
外では雨が激しく降り続けていた。
深夜、ふと目を覚ましたタケシは、何か妙な感覚に襲われた。身体が重い。まるで水中にいるかのように、息苦しい。それに、なぜか周囲が水の中に沈んでいるように見えた。
彼は驚いて飛び起き、窓の外を見ると、何もかもが水浸しになっているように見えた。
「何だ、これは…?」
不安に駆られ、タケシは玄関の傘に目をやった。すると、信じられない光景が目の前に広がった。
傘が、宙に浮いているのだ。しかも開いている。その傘のポリエステル生地の向こうには、巨大な魚の影が揺らめいていた。
「魚が…いる…?」
彼は夢でも見ているのだろうかと思ったが、次の瞬間、どこからか低い声が聞こえてきた。
「君は今、魚たちの世界にいる。」
タケシは驚愕し、声が出なかった。
傘の生地の向こうに無数の魚たちが泳いでいる。まるで雨が傘の中の世界に海を作り、そこに魚が集まっているかのようだった。
彼は恐る恐る傘に手を伸ばすと、その瞬間、意識が途切れた。
気がつくと、タケシは海の中に漂っていた。
呼吸は苦しくないが、身体は自由に動かない。彼は魚になっていたのだ。
水の流れに身を任せ、他の魚たちと共に漂う。魚たちの思念が、彼の中に流れ込んでくる。
捕食の恐怖、海流に逆らう苦しみ、時折訪れる静寂と安堵。それらすべてがタケシの意識に浸透していく。
「これが、魚の気持ちなのか…?」
彼は驚きと同時に、深い孤独感を感じた。魚たちは常に何かから逃げ、何かに怯えて生きている。
誰もが孤独で、ただただ生き延びるために泳ぎ続ける。そんな中で、タケシもまた、無言の魚たちの群れの一部となっていた。
どれくらいの時間が経ったのか、タケシにはわからなかった。だが、突然彼の前に現れたのは、あの老人だった。海の中で、老人は穏やかに笑っていた。
「どうだ、魚の気持ちは?」
タケシは返事をしようとしたが、声は出ない。
ただ、心の中で「戻してくれ」と叫んだ。すると、老人はゆっくりと首を振り、こう言った。
「人間も魚も、大して変わらない。どちらも生きるために泳ぎ続けるしかないんだ。」
その言葉を最後に、タケシの視界は真っ暗になった。
翌朝、タケシは目を覚ました。自分のベッドに戻っていたが、傘はもうどこにもなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように。
部屋は静かで、外ではいつものように鳥が鳴いていた。
魚たちの孤独、恐怖、そして無限の海の中で漂う感覚が、彼の中に深く刻まれていた。
そして、それ以来、タケシは魚扱うことができなくなった。
魚を見るたびに、彼の中であの海の記憶がよみがえり、手が震えてしまうのだ。
しばらくして、タケシは市場から姿を消した。
誰も彼の行方を知らなかったが、ある時市場内で中卸を営む小谷が市街地のショッピングモールでタケシを見かけた。
タケシはあの時市場に来ていた老人と同じように、色とりどりの雨傘を腕に下げ、ポツンと立っていた。
明らかに市場にいた頃のタケシとは雰囲気が違う。
小谷は気味が悪くなったが、突然いなくなったタケシをこのまま見過ごすのもどうかと思い、声をかける。
「おい、タケシだよな。俺だよ、中卸の小谷。分かるよな?」
「ああ、小谷さん。傘、買いませんか」
「は・・?」
タケシは微笑んで、しかし力強く言った。
「この傘を持てば、魚の気持ちが分かるようになりますよ。市場関係者は、みんな魚の気持ちを知った方がいい。いや、知るべきだ。絶対にね。」